「縁」の良し悪し、扱いとレベル。

マルセイユタロットの「恋人」カードと「運命の輪」のカードを並べると、ほとんど人間の運というのは、実は(えん・えにし)でできていると感じます。

この縁というのは、もちろん人間同士がつながる縁とも言えますが、人間以外の存在やモノとのつながりも意味しています。

このふたつのカードでも、人間以外の存在が描写されていますし、そのことが、縁の運びや繋ぎ、さらには断ち切りについても、関係していると考えることができます。

しかし、私たちは「縁」について、何かしら、現実(見えるもの)を超えた働きがあるだろうことは想像していても、実際には、自分が働きかけたり、人から働きかけられたりして、つながるものと認識します。

つまりは、現実的に普通の「人間」が動いて縁が生じるということです。

このことは「恋人」カードでも象徴されており、絵柄の下の三人は、人間同士の実際の働きかけ、行動を示していると考えられます。

そのため、昨今の効率主義やデータ主義、成功や勝利を目指す傾向の人たちにおいて、縁結び、いわば人間関係においては、自分のためにならない人とは交流しないという態度の人もいるようです。

確かに、ある目的をテーマとした場合、その達成のためには、効率のよいつきあいや交流というのもあるでしょう。会って話していても、何の得にもならない、時間の無駄だという状態(関係)を避けるという選択です。

人生は平均80年だとしても、時間・寿命は限りあるものですから、一刻も無駄にはできないというのもわかります。

一方で、ダメとわかっていてもズルズルつきあってしまう関係、一般的によいとは思えない人との縁、切ろうとしてもなかなか切れない縁など、言ってみれば悪縁・腐れ縁みたいな選択を続けてしまう人もいます。

後者(悪い縁をつないだり、続けたりする人)のほうはダメ人間で、前者のほうは、無駄を省いたつきあい方と縁を結んでいくので、成功する可能性も高く、一般的に見て望ましい態度と言えるかもしれません。

しかし、目的のために効率よく縁を結んでいく人は、それは結局、自分の得になる人間関係か損する人間関係かで、縁を推し量っているところがあるのではないでしょうか。

この損か得かという観点は、自分にとっての「ある価値観」を基準にした二元判断であり、必ずしも、その価値観が絶対的に続くとは限らず、成功か失敗か、いいか悪いかのふたつの相克観点からなかなか逃れることができません。(気が休まらない)

自分の望む縁が結べたり、いい関係ができたりすればよいのですが、そうならなかった時の焦燥感や挫折感も大きなものになるおそれもあります。

片方を求めれば、もう片方が捨てられことになるのは明白であり、その捨てられたほうの世界に、実はもっと違った意味での良さや成功も隠されている可能性もあるのです。

自分が無駄と思っていた人との縁やつきあいの中に、自分を飛躍的に成長させるものがないとは限らないのです。

けれども、だからと言って、悪縁や腐れ縁を続けてよいということでもありません。

こういった悪い縁というものには、よく霊的なことや過去生データのようなものを心配する人がいますが、ほとんどは自分の心理的な要因が影響していることが多いものです。

※自分の思ういい縁に対しても、変にスピリチュアル過ぎる見方をする人も注意です。

たとえ霊的なものの影響があったとしても、やはり心理的・肉体的なコンディションと環境に、まずは注意を払ったほうがいい場合があります。

縁(の影響)でひとつ大切なのは、ほとんどは、自力(と他人のサポート)で何とかできるということです。

悪縁は自分で断ち切ったり、そういう縁を呼び込む心理的・肉体的パターンを、セラピストなどから気づかせてもらったりすることができるのです。

反対に、ある目的のためによいと思われる縁を結んでいくことも、自分の行動として、現実的に何かできるはずです。

タロットなどする人は、やたらと超越的な他力(スピリチュアルな何かのようなもの、超越存在など)を頼りたがる方がいますが、こと、マルセイユタロットにおいての示唆は、まずは自力と現実の周囲からということが求められているのです。

その上で、次の段階も示されています。

効率のよいつきあいや縁だけを大事にするという態度と、誰でもダラダラとつきあいをしてみたり、腐れ縁・悪縁を続けてしまったりする態度とは、真逆の関係にありますが、どちらも実は、人間だけを見ている縁と言えます。

人間だけ、目に見える範囲だけというのが普通の人の縁に対する見方と行動になるのですが、縁というのは、もっと奥深く、時間と狭い現実的な世界観を超越したものでもあります。

悪縁にひかれる傾向、つかまってしまう傾向の中に、大きく自分を霊的に成長させる何かがあります。

それは一般的価値観や、普通の占いでの運の良し悪しさえ超える、魂の求め(因縁と浄化にも関連)に関係します。

そして目的達成の効率を求める縁の過程では、計算通りには行かないことが時には起き、自らを混乱に貶めます。その後、自分を縛っていた、自分の作った幻想ともいえる「運命の輪」に気づいていくのです。

「縁は異なもの味なもの」と言われますが、まさに生きていてわかるものと死んでからわかるもの、さらに、この輪廻の果てを超えて見えてくる縁というのもあるのだと思います。

いわば「縁」とは自分のレベルいかんよって、縁のレベル(ネットワークレベルのもようなもの)の見え方、繋がり方も変わるわけです。

ちょうど、言葉だけでつながっているコミュニケーションと、インターネットや電波を通して、見えないものでもつながっているコミュニケーションとの違いのようなもので、どちらも同時に存在していますが、そのネットワークレベルにつながっていないと、あるいは使えないと、存在しないに等しいものなのです。

どの縁も、ある世界(レベル)においてはいい縁と悪い縁に分かれますし、それを意識した生き方もありでしょうが、またそれらを超えたところでは、いいも悪いもなく、もっと言えば、すべての縁は愛(神であり自分)だということもできるでしょう。

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