自分本位の貢献感が自分を救うこともある。

自分に自信がない、自分に生きている実感がないという人は少なくないような気がします。

人は何のために生きているのか、なぜ生きているのかということに、宗教や哲学も含めて、ずっと考察がなされてきましたし、今もって明確な回答が得られていないと言えましょう。

その秘密や理由は、矛盾のような、禅問答のような話になりますが、おそらく私たちが生きている限り、明かされることはないのでしょう。それがすなちわ、「生」というものの回答ではないかという気もします。

とはいえ、実際に生きていますと、様々な矛盾や苦悩、理不尽さを感じますし、冒頭にも示したように、生きづらさを感じていたり、生きている実感が希薄であったりする場合があるわけです。

私はこの理由のひとつに、マルセイユタロットの奥底に流れるある思想に見出すことができると思っているのですが、それはともかく、そうした生きる意味や、生きづらさのわけを考えることより、それを軽減し、現実生活の中で生きづらさや希薄感の解消を実践していくことのほうが大切になる場合があります。(理由を考えることが悪いわけではなく、人によっては、その考察が重要になるケースもあります)

その対処として、私は貢献感を持つことと、自分がなにがしかの貢献をするという(自覚的)実践と行動をすることにあると見ています。。

表現を変えれば、「自分が生きていることで役に立っていると思うストーリー」を自分で構築するということです。

これは思い込みと言えば思い込みなのですが、私たちの現実は、実際に客観的に誰しもに起こっている事実(客観・全体の現実)と、自分がその事実(事象・出来事)を受け、解釈し直して見ている自分自身の思う現実(固有の現実)とがあり、結局、後者が一人一人には重要で、つまるところ、自分の思い込む現実が、まさに自分に影響するわけです。

だからこそ、自分の作る自分への物語・ストーリーが重要なのです。

生きづらさを感じる人、生きる実感が希薄な人は、あまりに自分が空虚になっているため、悪い意味で自分が世界と一体になっていて、個性・個別・自分というものが感じられなくなっています。

これとは逆に、人と比べて自分が劣ったり、何も特徴がないと卑下したりすることによる劣等感のような希薄もあります。

どちらにおいても、世界(現実と認識する世の中・社会)に対しての無力感となり、貢献感がなく、言わば、自分が役立たず、存在してもしなくても同じみたいな感覚があるのです。

言わば、「自分がステルス状態になっているのが、ストレス状態になっている」わけです。(笑)

ということで、人から認められるとか評価されるとかではなく、とにかく、自分主体(自分本位)で、何か小さなことでもよいので、社会や人、世の中の役に立っていると自分が思うことを行うことから始めます。

これは本当に何でもよく、ちょっとでも自分(の行動が)役に立っていると考えられることをすればよいのです。

お金を使うのもありですし、健康づくりをしながら、空気を吸って二酸化炭素を吐いて、その循環が植物などに貢献していると考えるのもよいでしょう。

行動の前には、意識(思い)だけでもOKです。

「このこと(自分の日常での行動)は何かの役に立つ」と、無理矢理でも、こじつけでも結びつけるのです。

例えば働いていれば、会社や他人、組織に、とにかく役立っているわけで(給料分とかと計算で思わず、ある仕事をしているだけで一応は何かの作業がなされて、職場の役に立っているというように思います)、考え方さえ少し変えれば、役立ちの部分は、たとえほんのわずかであっても、貢献感情として出てきます。

もちろん、寄付したり、実際に何か人や社会のサポートをしていくボランティアや作業をするのはよいのですが、そんな大げさな貢献をしなくても、他人からの評価は思わずに、自分本位で役立つ、役立っているというストーリーを作る、思うことが一番重要です。

恋愛でも、たとえ片思いであっても、相手を想うことによって、相手を心配したり、相手の為に何かをしたい、相手が幸せであることを望む自分がいれば、それを自覚するだけで、相手への見えない貢献になっていることもあると考えることができるのです。(ただし、エゴが中心となって、相手はこうあるへきとか、自分にこうすべきとか、過剰にストーカーのようになって、相手の気持ちにお構いなしに勝手なことをするの問題で、違うことです)

マルセイユタロットを持っている人は、「」のカードを見ているだけで、そうした貢献感、役立つ自分の姿・部分を、心の中で見つけることができるでしょう。

そして何をしても貢献感がわかない、見つからないという人は、究極の宇宙や大きなもの、神という存在を置き、私は神(大宇宙・大きなもの)の表現の一部として、人生を経験していると考えるとよいでしょう。

あまりに大きな存在は、具体的で個人的なベースで表現することができません。空気は形として味わうことができないみたいなものです。

ですから、私たち一人一人、肉体と個人的感情・思考・経験をもって、神様(大いなるもの・全体)の代わりに、体験しているわけです。

それを思えば、私たちは誰もが、生きているだけで、(神に)貢献しているのです。

それがあなた個人的にはひどい人生とか、何の役にも立っていないとか思っていてもです。それは次元が実際ベース・見に見えるものだけで見ているからで、もっと次元を拡大し、上昇させてみると、あなたがこの世にいること、自分を自分として自覚できていること自体が、ものすごく、全体から見ての貢献になっているのです。

「こんな空しい(と感じる)人生、つらくて悲惨な(と感じる)人生も、神様からしたら、味わいたいひとつなんでしょう? じゃ、そのデータ送りますんで、よろしく。私の人生劇場、空虚感、スリル、サスペンス、味わっておくんなまし」

こんな感じでしょうか。(笑)

まあ、これもストーリー(データ)として変えることもできるわけですし、変化があったほうが、(全体として)見ているほうでは楽しいですから、空しい、悲惨だと思う人生から脱却したほうが、またさらなる全体への貢献にはなるかもしれませんね。

要するに、他人評価で決める貢献感ではなく、思い込みでもいいので、自分が貢献していると思えることをすればよく、そうした貢献ストーリー(役立っていると自分が感じる物語・理由・理屈)を構築すれば、自分本位(自分中心)から、自分の存在が濃くなってくるというわけなのです。

その結果、空虚感がたとえあっても、生きる理由が、自分なりに見つかってくるのです。

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