「やるかやらないのか」の間にあるもの。

タロットリーディングの問いの中でも、「なになにをするのはどうか?」というものがあります。

具体的になってきますと、仕事を辞める、転職する、独立するとか、好きな仕事をするとか、恋愛で気持ちを伝えるとか、結婚する、離婚するとか、あるセミナーに出る、ある技術や知識を学ぶとか、そのようなことを行うのはどうか?という質問ですね。

これは言ってしまえば、身も蓋もない話になりますが、結局、つきつめてしまえば、「やるかやらないか」というだけなのです。

しかし、そこには、機械ではない人間の悩みがあります。

やるかやらないかの間に、様々なグラデーションにも似た迷いがあるわけです。

しかし、これも整理すれば、感情(気持ち)の葛藤か、自分の価値観とて世間一般での価値観のズレ、さらには、失敗か成功かによる、特に失敗の恐怖を味わいたくないという恐れ、逆に言うと、結果としてショックを受けない選択をしたいというものなどがあると考えられます。

普通は、成功するか失敗するか(の先行きの判断)で躊躇するわけですが、その成功や失敗が、何をもって成功とし、何をもって(どんな状態をもって)失敗と言えるのかを考えると、つまるところ、自分の感情・思いによる自己の(状態)評価のジャッジ(判断・裁判)だと言うことができます。

成功や失敗という概念が、今の社会や世間一般のものと自分のそれが、一致すればするほど(同調・同意させればさせるほど)、杓子定規な(いわゆる現実的観点での)選択と迷いの理由になります。

反対に、世間の概念(価値観)と自分のものが離れれば離れるほど、世間で言うところの成功や失敗の範疇とははずれ、その境界線もあいまいなものになってきます。

言い換えれば、自分中心で、誰とも比べることのない天上天下唯我独尊のような世界観であれば、自分がいいと思えばよく、自分が成功と思えば成功という世界が現出します。

この意味では、精神が現実を創るというものに近く、何よりも自己の確立と自尊が重要になってくるわけです。

ですから、自分に自信がないという人は、何の選択においても、葛藤が多くなり、その葛藤や迷いは、ほかの人と比べること、ほかの価値観と自分のものとを照らし合わせ、両者が揺れることで、ますます決めることが難しくなってくるわけです。

ましてや起業や独立、好きなことで生きていきたいというようなことを目指すのには、強い自尊心、もしくは、自分への自信がないと、踏み出せなくなるのは当然だと言えます。

迷いには失敗のおそれもありますが、先述したように、その失敗という概念(実は観念)自体が、世間での迎合や世間一般の思うそれなので、言わば人の評価による成功・失敗のうちの失敗になることを恐れているのです。

最近は、心理的・スピリチュアル的に人を援助する技術を習い、それを仕事にして行きたいと思う人が、ネット社会になって簡単に起業自体はできることから増えてきました。

しかし、あまりに自分に自身がなく、他人との普通のコミュニケーションすら恐怖や問題がある状態では、仕事以前に、まず自分自身を、ある程度回復しておくことが必要です。

少なくとも、自分の選択の結果が、人のせいや、環境・運のせいにするなどして、責任を転嫁しているうちは、自分の力を他人に預けている状態であり、それでは、一時的な癒しや、なれ合い的な安心感を与えることはできても、仕事として、よい・悪いの両面を受け入れ、やっていくのには力不足のところがあります。

ところで、「私は成功できますか?」「私はこれを仕事をしていくことがてきますか?」という質問は、ちょくちょく受けることがあります。

その気持ち・心情・不安はよくわかります。最初から何もかも自信満々な人はいませんし、心配や不安・葛藤があるからこそ、相談したいと、人は思うものです。

けれども、たとえば、「あなたは成功できますよ」「あなたはそれを仕事として、やっていくことができますよ」というようなメッセージを受けることがあっても、その後、実際にはうまく行かないようなことがあれば、そのメッセージをくれた人のせいにして、自らの行いを省みることをしない人もいるでしょう。

また、反対に、メッセージを受けたことで背中を押され、勇気をもらって実行し、(自分の思う)成功を成し遂げて行けたという人もいらしゃるでしょう。

何かのお墨付きをもらう心理的安心感・目に見えない世界からの後押しを実感すること自体はよくても、お墨付きが免罪符となって、その免罪符がほしいがために、占いや人への相談をするというのでは、メッセージの内容にかかわらず、本当の意味で進展するのは難しいと言えます。

結局後者の人は、他者からの評価・断定(保証)を拠り所としているのであり、あくまで自己の選択と責任のためのひとつの指針や情報、勇気づけとして見ているのではないのです。

それは言い換えれば、他者(運や環境も含む)のための選択であり、他者の人生・世界に自分を預け、沿わせているようなものです。従って、いつまで経っても、自分自身を生きる実感がなく、迷いや閉塞感・外側を気にする状態で、苛まされることになります。

マルセイユタロットでいえば、「運命の輪」の中に自らをあてはめ(押し込め)、その回転に翻弄される人生と、その輪の上に立ち、自らを他者の運や評価から脱却させた人との違いと言えるでしょう。

ただ、そうは言っても、すぐに自分に力を取り戻したり、自信を回復させたりできないのも人間です。

ある程度の他者(環境・運)依存も認めて、それを利用しつつ、少しずつ(「節制」のカードが暗示します)、自己の力と自尊を回復していくことです。

そのため、対人援助についても、いきなりプロを目指すことではなく、できる範囲(経済的なものも含む)で、「戦車」の両輪のようにして、あるいは「節制」の壷の水のようにして、ふたつを混ぜ合わせたり、動かしたりしていくとよいのです。

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