内に聞く。外に聞く。
辻占い(辻占・つじうら)という占い形式があります。
これは、四つ角とか橋のかかる通り(異世界や異次元、非日常との境界空間も意味します)とかで、質問の回答を偶然に発見する(託宣として受け取る)という方法です。
例えば、何かのことで、もっと学びを進めていくべきか、しばらく様子見しておくべきかで悩んでいるとして、通りに立って最初に目にした看板が答えだと設定し、そして飛び込んで来たのが、学習塾の「進学」の文字看板だったとすれば、答えは「学びを進めるべきだ」と判断できるというものです。
いわば、託宣を偶然の外部の出来事に任せるという方法ですね。
何も辻や通りに出なくても、偶然を利用する託宣では、いろいろとやり方は可能です。しかも、意識していなくても、たまたま託宣やシンクロ、辻占状態になっていることもあります。
留学のことを考えていたら、カフェで座った隣の人たちが旅行話をしていて、しかもそれが自分の行きたいと思っていた国のことだった・・・というようなこともあるでしょう。
このような時でも、隣の人はおそらく旅行の話だけではなく、いろいろと雑談をしていたはずですが、自分の耳に入ってきたのが、たまたま旅行の話の部分だったというケースがあります。
そこに偶然の必然性、シンクロニシティを感じさせます。
とはいえ、人の情報処理システムや心理的機能から見れば、自分が関心を抱いているものに注目し、無意識的にもフォーカスしているのは当然で、自分に関心のある部分だけ都合よく視覚・聴覚などからの情報を入れている(ほかの情報はそぎ落とされている)という考え方もできます。
そうすると、不思議というものではなく、むしろ当然の結果ともいえます。
しかし、自分の心の内(無意識的になっているものも含む)を、外のもので確認していると見れば、いずれにしても、それは、自分へのひとつの答えや解決策として、自分が見ようとしていると考えることができます。
結局、神が見せていようが、自分の心や意識(無意識部分・情報処理傾向も入れて)が見せていようが、どちらにしても、自分自身の悩みを、何らかの形で整理しようとしていることには変わりないわけです。
スピリチュアル的にいえば、内(精神・魂)も外(環境・物質)も次元と表現が違うだけで、本質的に同じであると考えることもできますから、自分の思いが外に現れている、その逆に、外のものは自分の内面を象徴していると見ることも可能です。
自分が悩みに悩んでいる時、心の中では堂々巡りしていたり、自分一人で考えていてもなかなか結論が出なかったりする場合があり、それは反対に、外側の現実的環境、物質(モノ)、他人の言葉、もっといえば、自分(の問題や悩みそのもの)とは無関係なもので、その判断を仰ぐことが考えられます。
これは、独りよがりな世界で行き詰まっている状態を、客観的な(自分とは一見無関係なものや人)によって、一度狭い世界を破壊し、凝り固まって偏った主観的な判断の見方から切り離して、迷いを断ち切らせる機能になるわけです。
無関係な他人、さらには悩みとは無関係(自分の悩みなど知らない状態)な言葉、物事をもって、自分への回答とすることで、それだからこそ、信じられる気がしてきます。
このことは、実は、「神」のような、この世界を内も外もすべて意味あるもの(つながりがあるもの、関連しているもの、どこにあっても、何おいても全体を透徹した超意識のようなものの存在)として見ているからこそ、できることなのです。
自分とほかのものは無関係という(顕在的な)意識のもとで、無意識層、または超越的な意識のほうは、自分も外のもの(人)も、実は無関係ではないこと(繋がっていること)を知っているのです。
辻占いのような、外側のことに、自分の心の内の判断を委ねるのは、結局、自分の内側に、違う形で問うていることと同じと言えます。
外に問いつつ、内に問う、内に問いつつ、外に問う、これは本質的に同じなのです。
自分の知りたい答えが内にない場合もあります。(多様な内なる自分が入り乱れていて、どれがこの場合適切かが判断できない状態)
そんな時は、偶然を装った、「外に」答えを見出してもよいでしょう。
それは視点(ベクトル)の違いなだけで、内でも外でも、神、もしくは自分に問うて、自分(神)で答えているのと同じだと、究極的には考えられるのです。
ですから、外のもので自分の悩みや問題の答えが見つかった場合、一方では、「外から見させられた(お告げがあった)」と言ってもいいし、もう一方では「自分が(外から答えを)選択した(引き寄せた」)」と言ってもいいのです。
コメントを残す