我慢することは、いいのか悪いのか。
前回は、マルセイユタロットの「吊るし」のカードから、選択における「停止」「何もしない」ことを中心に解説しました。
今回は予告していましたように、同じ「吊るし」からでも、我慢や忍耐について考察してみたいと思います。
「吊るし」のカードで、何らかのネガティブなイメージを持たせる時、そのひとつとして、我慢すること、耐えている状況というものが浮かんでくるかもしれません。
昨今、心理系を中心に、我慢することは問題である。良くないことである。という主張が多くなってきました。
我慢というのも、状況的には自分自身がつらいことになっているわけですが、結局のところ、それは本当の自分というものから目をそらし、他人や外の環境に自己の基準・評価を委ねてしまっていると言えます。
「自分さえ我慢していれば周囲もうまく行く」「自分の我慢によって、いつかは自分が評価される、報われる」「我慢しなければ誰からも認められない」「我慢することが美徳である」「我慢や辛抱した結果、よいことが訪れる」・・・このような思い込み、さらには自己の評価や自身の存在価値を、我慢することによって獲得しようとする姿勢でもあります。
それではいつまで経っても、本来の自己に戻れず、真の自立から遠ざかることになります。
それに、他人や周囲の期待(それは他人から見た自分の理想の姿)に応える自分では、まさにほかの誰でもない、自分自身がしたいこと、自分の望みを押し殺す(抑圧させる)ことになりますから、言わばそうした「二人の自分」との悩みで葛藤し、その影響が、心身の不調、言いようのない生きづらさを体感させることにもなります。
そもそも葛藤というものは、葛藤しつつも無理矢理安定させていくふりを続けなくてはなりませんから、相当エネルギーを消耗するものです。(マルセイユタロットの「月」と「力」の関係にもあります)
ということで、表の自分と裏の自分とを争わない形にするためには、我慢をなるべくしないほうがよいという理屈にもなってくるわけです。
しかし、このことによって、「我慢することは悪いこと」だと決めつけている段階の人もいますが、もう少し考えを深めていくと、ことはそう単純なものではなくなってきます。
まず、我慢や耐えることそのものは悪くも良くもなく、ただそういう状態があると見ます。
ところで、人間や物事の状態には、圧力をかけていたほうがよい場合があります。
バネにしても、縮むからこそ伸びることができるのであり、何もかも伸びきった環境では、成長が見込めないのも事実です。
つまり、ある程度の圧力(プレッシャー)・負荷というものはバランスの意味でも、成長の意味でも必要なものだと考えられます。
この観点に立つと、我慢そのものは、自分に負荷をかけていることになり、ある種の(自己を鍛え、可能性を飛躍させる)試練にもなっているわけです。
何もかも自分の思い通り、欲求のままに表現したり、通ったりすると、それは小さな子どもがダダをこね、それが叶って何でも与えられるようなものと言えます。
だからと言って、必要以上に圧力や負荷をかけると、負荷によって壊れてしまう場合があります。ここが難しいところです。
どの程度の我慢が自分の成長にとってよいものになるのか、あるい自分を壊す害となるのか、これはなかなかわかりづらいからです。
ただ、一概に「我慢すること」「耐えること」すべてが、自分にとって悪いものではないのは、ある意味、当たり前でもありますが、言えることです。
この点は、今述べたように、当たり前ではあるのですが、スピリチュアル・心理系の人の中には、過剰に我慢を嫌い、我慢することが悪いことだと、逃避や自分が努力しないことへの免罪符のように使う危険性から逃れる意味でも、意外に重要なことだと思います。
さらに、もう一段深く見ていきます。
これは我慢することが、実は他人も含めての自分の救済、さらには宇宙的浄化(調和)にもなるという見方です。
我慢や辛抱が、自分を殺すという主張は多いですが、まったく反対の自分の救済になるというものです。
これは霊的な観点まで進まないと見えてこないものと言えますが、簡単に言えば、魂が我慢(する状況)を望んでいることもある(かもしれない)という考えです。
ただし、カルマ論になってしまうと危険なので(今生は我慢しなければならない運命とか、カルマ浄化のための必然性とかで見てしまうもの)、それとは区別します。
さきほど見ました、心理次元の「我慢」では、「自分が心ではしたいと思っていること」と、「他人や周囲から期待されている(と思う)心」との葛藤を調整するために、結局、自分が本当に心からしたいと思っいることに気づく」重要性へと導かれることになり、我慢することの問題点も指摘できました。
しかし、ここでの「我慢」とは、心理次元のさらに奧には、「魂」次元の思いがあると想定するものになります。
自分の我慢は、心理次元(心の状態)として見れば、自分を押し殺している(自分の気持ちを抑圧している)ことかもしれませんが、一方で他人や外からの期待に応えようとする心も確かにあり、それはふたつ心(自分中心・自分の欲求・願望と他人の欲求と願望、自分の理想と他人の理想、自分・内側の精神と他人・外側の物質や現実)の統合を、魂は志しているからであると見ることもでき、難しい状況を自分にあえて課していると考えられる(場合もある)のです。
それに注意しなければならないのは、自分の心の声、自分が本当にしたいことと言っても、いくつもある自分の中の人格のひとつに過ぎず、単なる欲望やエゴ的な心から出ている場合もあります。
我慢して他人の期待に応えたり、結果を出したりすることが無意識のうちにパターンとなっていて、そういうパターンでしか自分を認められない、行動できないとなっている場合は問題ですが、ほかのパターンで自分を認めたり、幸せになったりする方法は、もちろんたくさんあるわけです。
いわば、それは、自分の視点を左右に振ってみた時、初めて今までのパターンに気づいて、他のよい方法もあることがわかったという状態です。
魂次元での我慢への気づきというのは、左右ではなく、上下垂直に見ることであり、自分の縛っていたパターンそのものが、実は大きな恩恵で、崇高な統合と大きな成長、言い換えれば次元自体を超える装置(仕掛け)にもなっていたことに気づく方向性です。
宇宙的に言えば、地球という星を選択した意味、グノーシス的には、肉体を持ってこの世に誕生し、生活していく意味の本質とも関連してくると言えます。
そうすると、我慢しがちな人というのは、自分を殺している人、自分で自分を生きづらくしてしまっている人と心理次元では見られますが、魂次元では、自他の統合と調和のため、大きな作業として、そういう環境や設定をしているチャレンジャーとして見えてきます。
ただし、魂次元の前には、心理次元の気づきも大切ですから、やはり自分が肉体的・精神的に壊れてしまう我慢・辛抱・圧力・負荷というのは、問題と言えます。
プレッシャーとは逆の、弛緩・解放も当然必要なものですから、我慢し過ぎないこと、楽を選ぶこともよい選択となりえます。
楽に向かうのは効率の良さにもつながりますから、意外なことに思うかもしれませんが、無駄を省く意味では、一見、無駄と思えるようなくだらないこと、楽しいことを考えるのもよいのです。(マルセイユタロットでは、「悪魔」と「13」にも関係します。)
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