「自由」という名の縛り

マルセイユタロットは、様々な分野の成長段階を絵図で象徴させているものと言えます。
 
ただこれは、様々なものを表せる「元型」のようなものが描かれているからそう見える、と言い換えることができます。
 
ですから、様々な分野と言っても、それぞれ(の分野)に具体的とはいえないもので、すべてを包括した、ある種のパターンといったものが示されている、いわば抽象的なものなのです。
 
おかしな話になりますが、具体的であればあるほど、実は本質のようなものからはずれて行き、嘘が多くなってきます。
 
嘘というより、それぞれ固有の世界観に支配されると言ったほうがいいでしょうか。
 
色で言えば、もともと白かったものに、段々色がついてきて、しかも具体的になればなるほど、その色ももっと濃くなって、明らかに「ほかの色」として見えてくる状態と言えましょう。
 
さてこの話と実は深いところでつながることを今から書くわけですが、そのつながりが見えない人は別にそれで構いません。ここから別記事だと思えばよいです。
 
マルセイユタロットのあるカードたちの関係性を見ていくうちに、私たちは、自由を得る過程で、段階ごと、あるいは分野ごとに、あるルールに縛られる(自らを束縛する)ことがわかります。
 
わかりやすいのは、いわゆるその時代や社会の常識、文字通りの明文化された(形ある)法律やルールなどです。また自分のより上(親・先生・先輩・上司等)だと思う力(関係)の者の言葉も入ってくるかもしれません。
 
これらは現実や、目に見に見える範囲のルールによる支配と言い換えてもよいでしょう。
 
次に、自分の心が決めているものたちによる支配があります。
 
この支配は、先述した現実のルールに基づきながらも、自分の(心が感じた)歴史・経験を中心に組み上げられてきた、いわば明文化されていない(目に見えない)規則・ルールと言えます。
 
同じ条件で、ある事柄が自分の身に起こったとしても、Aさんにはそれが心に強く印象づけるものと感じる場合もあれば、Bさんでは何でもなかったこととして流している場合もあり、つまりは人によって、心に受ける度合いは様々です。
 
しかもそれが、心の深い部分(無意識層)まで刻まれていく時と、心の奧までは影響はなかったということもあります。
 
要するに、無意識の中に自分の決まり事や強烈な印象として刻印されてしまったものが、心の内のルールによる支配になると言えます。
 
そのほかにもまだまだありますが、そのうち、やっかいなのは、「自由」という名の下の支配(縛り)です。
 
これは一見、心の支配を脱しているように見えて、その実、何か(見えるものもあれば見えないものもあります)に頼りつつ、一時的な自由になったような錯覚を起こしている「幻想」による支配と言えます。
 
この支配の恐ろしいところは、自分では束縛の自覚がないばかりか、今度は、自分が人を縛る側に回っていくことにあります。
 
自由や解放を目指していく中で、一足飛びにそれを過剰に求めたり、ひとつの強い縛りが解けたあとの、急激な解放感に酔ったりして、実はひとつずつきちんと登っていた梯子からはずれた状態になっているものと例えられるでしょうか。
 
自由や解放、または分離から統合のあこがれが強すぎて、逃れたいと思う心が「逃れた状態」「逃れた人たち」という幻想空間(現実の中の特別ルールで見る世界観)を創造し、それに遊んでしまうものとも言えます。
 
そしてその創造された空間(フィールド・世界観)に仲間をおびき寄せ、象徴的に言えば、支配・束縛状態にある「偽のエデンの園」を体感させます。
 
ここでは知恵の実は失われ(隠されている、見えなくさせられている)、いつまでも、本当の意味では失楽園でありつつ、自分たちの意識では楽園であるところに居続けることになるです。
 
何が言いたいかといえば、安全に解放を進めていくのには、順を追ったひとつずつの段階があるということです。
 
ただ、今まで述べてきた各支配・束縛のシステムは多重構造でもあり、レベル(次元)を変えて見ていれば、各々の支配からの解放を、同時進行していくことも可能になります。
 
実は学びを志向する多くの人は、それを自動的にやっていて、例えば、常識的なルールに疑いを持つと、自分の心の縛りの解放へと向かうことも自然にあり、その逆に、心のルールへの気づきが、現実的なルールと自己との調整にうまく働くという感じです。
 
ですが、「自由」「解放」そのもの、つまりそういった言葉や概念から来る縛り(自分や他人が生み出す解放幻想)にも注意しましょうということなのです。

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