目標や使命を、持つ・持たない人生
人生に何か目的や目標があったほうがいいのか、あるいはないほうがいいのか、これは議論の分かれるところだと思います。
さらに目的というより、もっと大きな使命のようなものについても、あるべきか否かという観点が出てきます。
結局、人それぞれ、その人がどちらがいいと思うかで決まると言えるものですが、改めて、その違いを見てみるのも面白いかもしれません。
まず人生に目的あるなし、どちらがいいかという点ですが、これには時間と効率をポイントとして見ると、判断がつくこともあります。
それは短期的には、目標があったほうが有意義に過ごしやすいというか、効率的になると言えます。
3ヶ月後にはこうなっていたいとか、この一年ではこれを成し遂げるとか、そういったものがあると、焦点も絞りやすくなり、その達成のために情報も行動も集中しやすくなります。
その結果、目標の実現いかんにかかわらず、その期間は、とにかくも濃密な状態で過ごすことができます。そのため、生きている実感も伴いやすいでしょう。
しかし、何十年ものスパンともなってきますと、そこにたとえ目標や目的を立てたとしても、それが達成できるかどうかはかなり先の話となり、そのためのスモールステップや段階を刻んでいくにしても、中だるみや、目標到達度合いの進展の遅さなど感じてしまうと、目標を持つ効果が、人生によい影響を与えるとは言い難くなりそうです。
見方を変えれば、その目標に縛られた人生ということにもなりかねず、長い間、その目標のために生きてきたのに、それが達成できなかったとすれば、その落胆も、それだけ長大な時間をかけてきた重さによって半端ないものとなり、せっかくの人生を無駄にしたという思いになるおそれもあります。
ということで、時間的には、短期の場面において、目標設定した人生のほうが良さそうに思います。
さて、今度は使命のようなものについてですが、使命感があるのとないのとでは、生き方が大きく変わるのは間違いないでしょう。
それがいい(人生な)のか悪い(人生な)のかは、結局は、最初にも述べた通り、その人がどう感じる(最後に思った)かによると思います。
ただ、使命を持つということは、強い意志や、折れない心などイメージされ、はたまた見た目の結果とか、数値などで計れるようなこととは違い、心の中の情熱、さらには形にとれわれない純粋なものを感じさせます。
それは感情に依拠するとはいえ、好き嫌いという感情的ものを超えた、何か心の奥底から燃え上がる魂的な欲求に従うという印象でもあります。
タロットで表現される四大元素でいえば、感情の「水」というより情熱の「火」に当たるでしょう。
また「目標」には、その達成のために合理的で効率的なものを求めることがあるのに対し、「使命」の場合は、そういうこともあるとはいえ、必ずしも「論理」や「効率」性を求めず、客観性より、あくまで主観である自分の納得感によるものがあると考えられます。
ということは、先の時間的な観点で言えば、長期的な時間において、使命(感)を持つことは向いていると言えます。
しかしながら、目標や使命においても、それに囚われ過ぎると、ほかの人生の可能性を失ったり、狭めたりして、束縛のひもになることも、覚えておいたほうがよいでしょう。
ひもは、ポジティブに見れば、自分(の力や表現)を、ある方向に強めさせるもの(引っ張ったり、導いたりするもの)でもありますが、その逆に、文字通り、ひもとして拘束具となるわけですから。(マルセイユタロットの「悪魔」に、顕著に図示されています)
あと、目標や使命においても、具体的であるか、抽象的であるかという見方があります。
具体的な目標となれば、時間的には、やはり短期的な目標という感じがしますし、長期的になると、抽象的なものでもOKとなってくるでしょう。
つまり、人生全体では、抽象的な、例えば「楽しく生きる」ことが目標という感じでもありですが、その時々、ある部分を切り取ったところでは、「仕事において、なるべく好きなことに携わること」「好きな人と結婚すること」「アメリカへ留学すること(自分が楽しいと思う国で過ごすこと)」・・・など、具体的なものが、「楽しい人生」という目標に叶っていると見て、細かい目標になってくるというわけです。
マルセイユタロットで言えば、「愚者」というカードが、「世界」のカードという大目標や抽象的とも言える生き方の理想的なイメージを持ちながら、ほかの大アルカナと小アルカナのカードたちによって、実際の人生の場面において、細かな目標を設定し、具体的・現実的に過ごしていくという感じです。
ということは、(細かな)目標など、いつ持っても構わないわけで、しかもその都度、臨機応変に変わっていくのも当然と言えます。
しかしながら、大きな意味での使命とか、自分の人生の大目標、または最終的に亡くなる前に、「どう自分は生きた存在として終わるのか」という観点で見た時のイメージは、人生を過ごしながらの過程の最中で浮上してくるものであり、時代や年代、その時の情報に振り回されない、コアで核のようなものになると想像されます。
それらは持っていいとか、持たないほうがいいとかというレベルで判断できるものではなく、実は、生きていれば自然に魂の奥底から湧き起こってくるもの、そう直観してくるものと言えましょう。
ただ、何もそうしたことを考えずに生きていた場合、おそらく、自分が亡くなる直前に、いわゆる「走馬燈のように駆けめぐる」と表現される、自身の人生の総合データ観照作用によって気がつくことになると思いますが、それでは遅い(悔恨などのカルマを強く印象づけるおそれ)こともあります。
ですから、目標ではありませんが、自分の生きる意味・テーマのようなもの、現実に成し遂げる物質的・形としての成果ではなく、精神的・霊的に自分はどう生きるのか、何を求め生きるのかというものは、持っていた(気づくようにした)ほうがいいかと思われます。
ただひとつ、おかしなことを言うように思うかもしれませんが、これはよく言われるような、現実的に悔いなく生きるとか、充実した人生を過ごすという意味とか目標とは少し違います。(それはそれですばらしいことで、一般的には、それで十分なこともあるのですが)
どういうことなのかは、皆さん自身で考えてみてください。
コメントを残す