限定の時間と永遠性

私たちが「現実」と思う重要な要素に、「時間」というものがあります。

時間という認識があるからこそ、過去・現在・未来という一方向の流れに「生」が積み重なり、時間の経緯とともに生きている(また死ぬ)ことを感じています。

ということは、ある「時間」という区切りや単位というものが、私たちの生活を彩り、その状態を決めていると述べることもできます。

つまり、もっとシンプルに言いますと、時間こそが現実意識(認識)の要であり、時間が私たちに生活感覚を与えていると言えます。

これは、言い方を換えれば、時間枠があるから、私たちは喜怒哀楽のような感情も体験しやすくなっている仕組みだと考えられます。

要するに、制限ある「時(とき)」という思い(込み)が、私たちに限定した意識を生み出させて、その限定された生活・人生というひとかたまり(時間が区切られたひとかたまりの時空)を、濃密に味わうことができているということなのです。

「マルセイユタロット」で時間・刻(とき)を象徴するカードといえば、「運命の輪」がイメージされますが、その輪の中こそが、ひとかたまりの私たちの時間認識と制限時空間だと言えます。

「運命の輪」は、見ようによっては、その輪の中に囚われている動物と感じられ、この動物が私たち自身の何かの象徴性であるならば、私たちは輪の中、すなわち、今回のテーマでは、時間というものに囚われていると読むことができます。

その一方で、「運命の輪」の中には、輪に囚われていない動物も描かれています。この動物が何なのかは、ここでは話しませんが、今回の記事のことでは、明らかに時間から逃れている存在というように見えます。

ところで、「時間」という漢字も面白いです。「」の(と)「」という漢字が組み合わさっています。そう、「間(ま・あいだ)」というのがあるわけです。

時の狭間、間とは何か? それを考えると、時間というもの、時間への囚われというものも見えてくるかもしれません。

さて、今回は言いたいことは、そうした時間と現実の仕組みを理解しつつ、時間を意識する生き方としない生き方のふたつを、まさに時に応じて(笑)、うまく取り入れながら、生きていくとよいというものです。

時間はつまるところ、限定させるもの、始まりと終わり(創造と破壊・消滅)という、「動き」「変転」を実感させるものといえます。(だから「運命の輪」の輪が回っているのです)

反対に、時間がない、時間から逃れるとなれば、一言でいえば、「静止(に思える状態)」「永遠(性)」を意識することになります。

意識するというより、永遠・無・限定のない無限といったものに合一するような、自分が自分てないような状態になることだと、たとえられます。

しかし、現実という時空で生きている私たちからすれば、そのような意識になる「とき」はあるのか?といえば、面白い言い方になりますが、「とき」という意識を強く持つ限り、そうはならないと言えましょう。

ということは、「その時」とか、「時間」というのを忘れるようなことになればいいわけで、言ってみれば没頭とか熱中とか集中、瞑想など、自分という存在さえ忘れるくらいの何かに投げ出す、作業するみたいなことになるでしょう。

こういう状態になるのは、遊び・仕事・人間関係でも、まずはものすごく楽しい状態か、子どもように無心でやれるものか、たとえ傍目からは厳しいもののように見えても、強い使命感や無私的な行為であれば、成されることがあるわけです。

あと自分をなくせばいいわけですから、大自然とか、自分がいなくなるくらいの広大な空間、海、空、暗闇、巨大なものに投影するというものでもできます。

一方、時間というものを強く意識すること(状態)は、決して悪いことではありません。

時間という区切りがあるため、目的・目標を達成しやすくなりますし、このつらい状況があと半年で終わるとか、時間が経過するという意識によって物事が変わり、つらく苦しい状況にあるある人にとっては、同じ状況は続かないという思いになって、大変な救いになります。

いずれにしても、有限の時間内で色濃く生きよう、活動しよう、結果を残そうという意識が働いて、まさに人生密度が濃くなるわけです。それは、「自分(自身)」を生きている実感とも言えましょう。

しかし、限定された時間は、容赦なく次の時間に流れていくものでもあり、永遠性はありません。

ですから、ずっと一緒にいたいとか、同じ状況が続いて欲しいとか、若いままでいたいとか、経済的な安定が保証されたいとか、ずっと固定されることを望むと、それは囚われとなり、流れていく「とき」の変転事実に、あせりと喪失感が大きくなります。

つかんだものを離したくないと抵抗すればするほど、その人にとって、「とき」は残酷なものになります。

こういう人は、永遠性まで意識できずとも、とても長期的な、肉体次元より魂次元のようなものまで思いを馳せていくと、自分のこだわっていた「とき・時間」は実は一瞬のものであり、たとえば別れた人でも、魂のレベルでは、また輪廻転生を繰り返したり、別次元のエネルギーだったりして、その人の魂を受け継いだものとして、再会することも可能だと想像できるのです。

すると非永遠性で限定性の時空から、広大で永遠である「ひとつ」に自分を帰す感覚となり、逆に、この限られた時間という区切りの中で、

自然な流れのままに、自分らしく生きようと思ってくるのです。

不思議に思うかもしれませんが、一瞬と永遠はまったく違うようでいて、同じと言えます。

区切られ、限定された時間という間に一瞬一瞬があり、永遠はいつもそこにあるのです。

そのことは、分離された意識、私とあなた、上と下、光と闇、現在を中心にした過去と未来という時間軸・・・それらが強く意識されているので見えないだけなのです。

ですから、日常や現実の中で永遠性を感じるには、二元・分離したものなかに統合を見る行為・思考・感覚となってくるのです。別の表現では、「愛」の創造、認識と言ってもよいでしょう。

また私があなたの中にいて、あなたが私の中にいるという気づきの象徴性で語ることができます。これはマルセイユタロットでは、「太陽」の叡智として表現されます。

それは濃密な(生活・人生の)感覚から希薄なもの(しかし真理的には濃密なもの)へと変わるものなのですが、囚われからの解放という観点では、霊化の過程と言っていいものなのかもしれません。

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