セラピスト・相談者としての「仕事」

タロット手を学習する人の中では、タロットリーダーになって、(の問題)を癒したい、援助したいという人がいます。

最初からそう考えている人もいますが、どちらかと言えば、タロットを学んでいるうちにそうなってくることのほうが多いかもしれません。

タロットに限らず、何かセラピーを受けたり、そのメソッドを学んだりしていくうちに、自身の問題が解決されたり、救われたりして、今度は逆に、他人を救いたいと思うようになる人が増えます。

それはいいのですが、その段階になると、問題がいくつか浮上してきます。

ひとつは、そのメソッドやツールに執心し過ぎて、半ば新興宗教の勧誘みたいになってしまい、人を助けたいのか、自分がそのメソッド・ツールを広げたいのか、その区別がつかず、混乱してしまうことです。

また、使う技術とかツールの出所・管理が組織的なものになっていて、資格制のよう形式で、さらに経済的報酬が、人を勧誘することや、セラピーを他人に行うことの数と連動的につながっていると、もはや本末転倒のような状態で、組織とそれに貢献する自分、経済的に潤う自分が優先されるようになってましうおそれもあります。

次に、相談者やセラピストのレベルの問題があります。

ここでいうレベルとは、セラピー・相談の技術レベルのことだけではなく、ひとつの世界(観)・次元の相違も意味しています。

このことは、以下の質問で考えることができます。

「セラピスト・相談者は、いくらいてもいいのか、あるいは一定数でなければならないか?」

セラピストになった方、それを志している方ならぱ、一度は、「セラピストとかカウンセラーは、何人いてもいい」と聞いたことがあるかもしれません。

それは人は悩める生き物であり、だからこそ、大なり小なり、潜在的なものも含めると、人は皆、相談する人、援助してくれる人を求めていると言えますし、また反対に、皆が皆、相談してもらう立場になることもできるからです。

しかし、それは究極的な意味での話です。

世界は様々なレベルで同時存在しています。言い換えれば、ひとつの世界は、ある基準・ルール・モノの見方を変えれば、その世界が現れてくる、見えてくるわけです。

ここでひとつのルールというか、決まりを入れましょう。

「セラピストが職業で成り立つ、つまり経済的に営業していけるレベルでの必要数はどうか?」で見ます。

すると、その数に限界はないということはできないでしょう。経済原理の基本として、需要と供給(のバランス)というものがあるからです。

もちろん、その原理で言えば、需要さえ掘り起こせば(創造すれば)、供給数も多くすることができます。

まだまだ需要(相談・セラピーをプロに求めるという欲求、姿勢、需要)が足りないということであれば、まだこの先、プロ的(経済的に成り立つ)セラピストは必要とされるわけです。

しかし、もはや供給過剰、市場としては飽和状態だと見れば、セラピストはもういらないとなり、場合によっては淘汰され、減少させられるかもしれません。

こうやって、ある括り、範疇、レベルを想定して考えると、セラピストや相談者を目指す人も、冷静に自分の位置や目標を定めることができるでしょう。

商売人であれば、需要を喚起したり、創り上げたりすることは定石のはずですから、セラピー業界の供給側につくのなら、セラピーを受ける人を、必要以上に創造(ひどい場合はねつ造)することもあると考えられます。

また、需要側を新たに見出すということでは、供給側のカラーを単色からカラフルに、あるいは、ほかとコラボ・複合したりして、特色をつけることで、従来のセラピー層とは違う、ほかの需要層からのシフトで、招き入れることもできるでしょう。

さらには一人勝ちみたいに、同じ業界でも、エッジを際立たせる(つまり、どんな形であれ目立つこと、ほかとの区別が明確である)ことで、自分が選ばれるという、需要の拡大ではなく、すでにある範囲から自分に需要を集中させるという手もあります。

いずれにしても、セラピーを経済的な意味での活動と結びつければ、市場の経済・競争原理から無縁ではいられなくなるのが、実態です。

それをスピリチュアル・波動・愛などという言葉で、目を背けても、自分が逆に苦しくなるだけです。

一方、経済的なことの縛りや括りから、はずれた世界・レベルで活動するというセラピストであれば、自分がアマチュア的、ボランティア的レベルで行うのも自由となりますから、その技術・表現も、お金で計られない世界で活動することが可能になります。

例えば、身近で知っている人に、ちょっとしたセラピー・癒しを与えるレベルもあれば、プロと変わらない技術はあるものの、利益にはこだわらない、比較的純粋な気持ちで行っていくという方法もあるでしょう。

そうしたすべての活動形式(セラピスト表現)や思いを入れると、セラピスト・相談者という人は、いくら(何人)いてもいいことになります。

よく、「好きなことを仕事にする」と言いますが、その「仕事」が、経済的な、生活面もすべてカバーする「生活手段的なもの」なのか、人や社会に貢献することを自身が実感する「生き甲斐的なもの」なのか、あるいは、その中間・折衷としての存在なのか、「(人・自分、その他に)仕える事」として、セラピスト・相談者を目指す人は、改めて「仕事」について、考えてみるのもよいのではないかと思います。

全員が同じ形・表現にならないのがこの世界であり、現実です。

あなたにとってふさわいセラピストと仕事としての形、組合せ、表現があるはずです。自分が納得すれば、人と違っていていいのですし、それが当たり前と言えば当たり前なのです。

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