聖性と俗性
マルセイユタロットの象徴性には、二元性から一元性への統合(その逆として、一元から二元、多様性への分離)という見方があります。
大切なのは、タロットそのものの論理性や感性、いわば「象徴性」を、タロットだけの世界で見るのではなく、私たちの現実と意識、さらには宇宙全体への考察と適用をし、個と全体を関連させつつ、俯瞰していくことにあると考えられます。
つまりは、タロットは私たち自身とその周囲のモデルとして活用できるわけです。
さて、そのマルセイユタロットからの二元性と一元性の象徴ですが、これは陰陽原理に始まって、あるゆる局面と種類で表されるものです。
その中でも、あまり普段は考えないものとして、「聖性」と「俗性」について、見てみたいと思います。
タロットの構成上、大アルカナと小アルカナというふたつのパート・種類で分けることができますが、実はこれも、大アルカナが聖性で、小アルカナが俗性という見方ができます。
ただし、ここが重要ですが、タロットは「象徴」ですから、いかようにでも解釈が可能で、ある概念や考え方があったとしても、それが「決まり」「絶対」ではないということです。あくまで、そうした見方もありますよ、となります。
そして、大アルカナの中にも聖性を示すカードと、俗性を示すカード、そのどちらでもなくて、またどちらでもあるようなカードたちに大別できるかもしれません。
もちろん、これは全体として俗性分野と見られる小アルカナにおいても同様で、見ようによっては、小アルカナの中でも、聖・俗に分けて考えることも可能です。
さて、ここで言いたいのは、そうしたタロットから見ても、私たちには「聖性」と「俗性」という二元でのとらえ方、感性があるということです。
例えば、時間(経過)においても、何となく過ぎる日常時間(俗的時間)と、特別に意識する時間(聖なる時間)があります。
空間(場所)においても、聖なる非日常的な場所と、俗なる普通で日常的な場所があり、もっと極端に言えば、まさに神社仏閣、あるいは貴重な自然あふれる清らかな場所に対して、いわゆる「夜の街」のような、飲み屋や歓楽街といった雑多な空間もあるわけです。(観察すればわかりますが、神社仏閣と歓楽街はセットとして成り立っているところが多いです)
仕事でも、聖職というのに対し、普通の仕事という対比がありますし、企業の中でも、理念や理想を掲げ、社会や人々に貢献する部分と、利潤追求、儲けを得るため、社員の生活のためという活動理由も当然あります。
そして、何より、私たち誰もが、聖なる部分と俗なる部分が混交した存在であり、それこそがまた「人間」の特徴だと言えましょう。
人は神性または天使性、仏性や菩薩性を持つつも、欲望にまみれ、我よしと利己に走ったり、悪や堕落に陥るおそれも持っています。まさに正義と悪が一緒になった存在です。
ところでマルセイユタロットの動物象徴として、最高度の解放性(序列的な意味ではありません)を持つと考えられる「鷲」は、鳥ですので、当たり前ですが「羽」として、ふたつの翼を持ちます。天使も同じです。
そして、鷲が地上に降りる足は、一本足ではなく、これまた当然ですが、二本足です。しかし、体や頭はひとつであり、またヤタガラスのように、三本足の象徴性(ふたつとひとつ)を見る場合もあります。
何が言いたいのかと言えば、結局、これも二元が一元になる二元統合であり、二元を聖と俗で考えれば、その両面を併せ持ちつつも、ひとつとして統合された時、完成に至る(真の自由に飛翔できる)ことを物語っているのだと想像されます。
「アプラクサス」という、異形の鳥のシンボル・神の使いのような存在が伝えられています(鳥自体はアプラクサスに向かう存在、アプラクサスを知る存在と見る向きもあります)が、これも古代の二元統合のシンボル神と言えましょう。
これらの象徴から見ても、私たちの中の「鷲(真の智慧、自由・解放性)」を飛び立たせるのは、実は聖意識だけではなく、俗を受けて入れる基礎が大事だとも考えられます。
また逆に言えば、俗だけの時空にどっぷり浸かっていては、飛び立つこともできず、三本目の足も出ないということになるでしょう。この状態は、卵の殻に閉じこめられている(殻を破る「くちばし」として、三本目の足が出ていない)ものとして、見ることもできます。
マルセイユタロットの「運命の輪」の象徴とも関連しますが、聖と俗、俗と聖の二重(入れ替わり)構造とその回転により、私たちは、閉じこめられた自身を解放するきっかけを得ます。
それは、聖と俗を、まずはきちんと区別することから始まり、やがて、俗なるものに聖なるものが宿ること、聖なるものは、俗なる土壌の上に浮かび上がるものであること、また聖には堕落がつきもので、逆に俗の極限には、清浄なものを見ることが可能であることが、言わば、「卵から鳥をかえす」ことにつながるのです。
例えば、私たちに俗を思い起こさせるものには、「セクシャル、性(の行為)」というものがあります。
しかし、だからこそ、そこには崇高な「聖」があることに気づけるのです。生殖行為としてだけの部分を見ても、子孫・命を誕生させることができるという、すばらしい奇跡が起きています。
しかし、最近は性についても、あまりに肉体的なものにとらえられる人が多すぎ、性から聖を抽出する過程で、肉欲的なものに拘束され、その欲望を満たす欲求のために、詭弁として「聖」に言い換えている、置き換えている風潮が多くなっているように感じます。
もちろん、性を汚いものと見ることも、それは性を俗として見過ぎていることと同じになります。
結局、過剰な俗は、人しての俗を強化し、例えば「お金・物欲」というものに転化されていくことも多く、とても性が聖とは言えないものになっています。
ほかにも、パワースポットブームというのもありますが、これも聖を俗にしてしまう転化に陥っているものと言えましょう。
最初は聖なる場所であっても、多くの人がお陰信仰的な思いで訪れれば、そこが物理的にも(人が多くなって、特別な場所ではなくなる)、また見えないエネルギー状態としても、清いものが汚され、俗なるものになっていくことは明らかです。利己欲のために、せっかくの聖地を俗地化させてしまっているわけです。
普段は「日常」なので、どうしても俗が中心となりますが、シンボルを意識すれば、俗の中で聖を浮上させることができます。
聖性を象徴するシンボル・象徴を絵図や形として置いたり、見ることで、いつもの日常的な自分から意識を切り離し、聖なるものへと移行させることができるわけです。
これはタロットの活用としてもできることです。
私たちは、かつては、おなじ家の中においても、聖と俗の空間が分けられていましたし、地域社会としても、日常と非日常の時期と場所がきちんと区別されていました。
今はそれが悪い意味で混交されてしまっています。
こうなると、自分が何者であるかもわからず、尊い存在や、逆に利用したり、支配したりするような邪悪の存在、両者の意識の区別もつかず、魂の真の解放のための発動も起きず、感情的・肉体的に反応するだけの、動物的人間となってしまうのです。
統合のためには、まずは分離として、きちんとした区別ができなくてはならないのです。
特に現代人は、聖性を意識する必要があるでしょう。
それは教義の意味でのスピリチュアルに関心を持ったり、信じたりするということとは別なものです。そはむしろ、俗性の強化に近いものです。
コメントを残す