「恋人と「審判」、恋の変容に見るもの。
マルセイユタロットの「恋人」カードと「審判」のカードは、特にその絵柄の構図からも、とても似通っており、一見して、両者が何らかの強い関連性、対称性のようなものを持つことがわかります。
しかし、同じカードではないのですから、似ているようで違っている部分が当然あり、それが意味として、重要なところがあります。
その詳しくは書けませんが、見た目のところから判断して、同じ構造としては、天使と三人の人物という点で共通しています。
そして、そのうえで違いはと言えば、天使の大きさ、人物の服と裸、視線などで、さらに「審判」には棺のような四角いものも登場しています。
「恋人」のほうの人物たちは、どうやら上空の天使(キューピッド)には気づいていないようですが、「審判」のほうでは、巨大な天使の存在を、少なくとも恋人カードの人たちよりも察しているか、やはり気づいているのではと思える描写になっています。
「天使」が文字通り、「天の使い」であるのなら、私たち地上の人間、「地」の者に対して、天からのメッセージ、働きかけを仲介している存在・状態として見ることができます。
すると、「恋人」カードの状態では、その天の作用やメッセージがまだ十分ではなく、人間の常識的・日常的感覚、判断が主になっているものと考えられます。
一方で、「審判」になると、直接、天のメッセージ、働きかけを受け取ることができている(常識を超える感覚・情報を持つ)ものだと想像できます。
これをもう少し表現を変えてみれば、天上(神性・霊的)意識への目覚めと気づき、そのレベルを象徴していると言えましょう。
「恋人」カードが、恋愛模様を描いているようにも見えるのも、偶然ではないばずです。
人は恋をした時、理想と現実、希望や願いと、それが叶ったり叶わなかったりする状態を経験します。
それは、「恋」というのが、必ず、相手・対象を必要としており、自分だけの思いや行動では決まらないものであるからです。
両思いで天国のような気持ちを味わう時もあれば、片思いや報われない恋をして、地獄のように苦しむこともあります。
相思相愛のよい恋愛状態であっても、気持ちが冷め、あるいは、たとえお互いに熱いものがあったとしても、諸々の事情などで、別れたり、失恋したりすることもあります。
ただそれは、確かにひとつの愛(愛情表現・恋としての)の形ではあっても、まだ天から見た認識レベルにおいては、やはり地上的(物質・束縛的)で、その恋において、天使からの本当に告げられるメッセージは、地上性とは別のところにあるというのが、「審判」との違いと言ってもよいでしょう。
ギリシア哲学風に言えば、天上の女神(ウラニア)と、地上の女神(パンデモス)との恋の違いのようなものです。
「恋人」のキューピッド(現実で出会う縁・恋愛での関係)が、「審判」の天使(天の真のメッセージ、その関係性の本質の認識)に変容した時、本当に高次の愛を知ることになります。
同時に、自分も、失った恋の痛手から、大きな全体の愛に包まれる(包まれていた)喜びを知ることになり、次元の上昇が導かれます。いわば、天使の本当の働きを知るのです。
従って、「審判」にある棺は、今まで覚醒していなかった自分の部分であり、しかし、それは自らの高次で純粋なものを浮上させるための、現実の体験フィールドでもあるのです。
そこから目覚めた者が、初めて大天使としてのラッパ、天使の情報を聴くことができます。(真の意味、答え合わせができる)
天使でいえば、「節制」というカードも天使の絵柄です。
体験によって、あるいは気づきによって、目覚めたあなたは、今度は「節制」となって、今苦しんでいる人、変容中の人を、現実において(心)の「天使」として、手助けすることになります。
だからこそ、「節制」の数の前に、「13」のカードがあり、7を基準にした関連性では、「恋人」(6)と「審判」(20)の間には、「13」が入ることにもなるのです。
「恋人」レベルの状態で、この人だけ、この人こそ真のパートナーと思っている時であっても、それがかなわない場合(別れたり、受け入れてもらえなかったりする時)は、実はその関係性と、そこまで思い悩むこと自体が、あなたのレベルを変容させようとしていることに気づくとよいでしょう。
有り体に言えば、ほかの人との深いつながりの可能性もあるかもしれず、その人が運命の人とは限らない(もちろん運命の人の場合もあるのですが、その人が絶対だったり、すべてであったりするのではない)ということなのです。
そういう思いになれることが、「審判」への変化でもあります。
(一人の)人への強い愛は、そのエネルギーを拡散すれば、たくさの人の愛のエネルギーにも匹敵します。
あなたがそこまで深く思えるのは、深い愛のエネルギーを有しているからでもあります。
しかし、それを(一人に)集中させてしまうことは、地上性での人としての性(さが)でもあって悪いことではありませんが、一方で、地上性・現実性に囚われからの解放を天使が働きかけてもいるのです。
失ったように見えても、何も失っていないどころか、まだほかの可能性(相手や表現)もあり、さらには次元の違う大いなる可能性と喜びも確かに存在していることが、「審判」には記されています。
コメントを残す