心理的問題を追及し過ぎている人
タロットリーディングをしたり、いろいろな人の記事を見たりしていますと、今の時代、心理的観点で自分の問題を見る方が増えたと感じます。
いや、それが普通のことなのかもしれません。今までがむしろ、心理的観点というものを無視していたか、あったとしても、現実には大した影響はないのだと思い込んでいたかでしょう。
しかし、あらゆる情報が簡単に入手できたり、披露されたりする中で、心(の中のデータ)に問題があるから生きづらくなっているという考えを受け入れるのも、今は当たり前のようになってきました。
そうしたことで、自分のつらさや心苦しさ、表面的にはそれなりにうまく生活できているようで、実は社会や集団に適用できていない自分を感じていたような人には、その心理的な原因もわかって救われるという人も少なくありません。
ところが、一方で最近は、あまりに深く自分の内面を掘り下げようとしている人がいるように感じます。
しかも深くという深度だけではなく、横にも拡張して、手を広げているという印象です。横というのは、自分の問題を心理的な原因として見て、その(原因の)見方を、様々なものからアプローチするというものです。
いわば、「原因はこれではないか」「あれではないか」と探り、その解決法に対するのもまた同じで、「この方法がある」「あの方法が効果的」「これさえ学べば問題は解消する」・・・みたいに、次々と問題要因の仮説と、その対処法・解決法の技術を調べあげ、実践もするという態度です。
それで癒されたり、現実(外面・環境)と自分の内面が調整されたりして、すっきりすればよいのですが、どうもこうした傾向にはまる人は、問題が解決してしまうことを恐れていたり、自分個人の範囲を超えた問題の分野まで入り込もうとしていたりするのではないかという危惧があります。
問題が解決してしまうことを恐れているというのは、簡単に言えば、自分の問題が解決してしまうと、自分の(存在)価値がなくなってしまうからです。
そこには、「問題を持って、生きづらくなっている、ほかの人とは違う自分」という、マイナスの特別感のようなものがあります。
裏を返せば、「自分には生きている価値がない(少ない)」とか、「人とはいろいろな意味で違っているから、うまく生きることができない」という感情で、それは劣等感といえばそうなのですが、厳密には劣等感とはちょっと違うものであり、社会に適応できないいらだち、恐れ、不安、虚無、あせりのようなものが一緒になった複雑なものと言えます。
それゆえに、そういう人には孤独感がつきまといますが、だから実は心の奥底では、そういう孤独な自分を受け入れてほしい、わかってほしい、認めてほしい、愛してほしいという感情も渦巻いています。
そのためには、自分が普通になっては困るのです。普通だと特別ではなくなりますから、自分に注目してもらえなくなります。
そして、ここがもっともポイントですが、それは他人に認められたいというものよりも、実はもう一人の自分自身に認められたいという、内部構造の分離と統合に関係しているのです。
心に問題を抱えている自分(子どもの自分)が解消されてしまうと、もう一人の自分(大人といってもいい自分)に見捨てられるという恐怖が根底にあります。
「子どもの自分」と「大人の自分」と書くと単純ですが、これは便宜上、そう書いたまでで、マルセイユタロット的には、本当は反転しており、大人こそが子どもであり、子どもこそが大人で、結局は、魂の反抗みたいなところになっているのです。
そのことが現代心理学(アカデミズムの心理学)では説明されないので、せいぜい潜在意識と表面意識みたいなモデルで扱われ、その統合や調整という観点になってくるので、逆に、問題を探求していく姿勢が崩れないのです。
魂の反抗とは、霊性回帰のためのレジスタンスであり、現代社会に巣くう歪みからの脱出を意味します。(言葉を換えれば「グノーシス」となります)
そのプロセスとして、心理的に、奥深くの心の問題を探ろうとしたり、様々な原因と解決策を見出そうとしたりという方向性になってくるのです。
しかし、当人には、自分の生きづらさや問題が、何か心の中にあるデータが問題を引き起こしているのではないかと思っているため(実際、そういうことがありますし、その構造を明らかにするのが心理学的な説明とひとつの治療になります)、すべてがすっきりする「これだ!」という原因と解決法が見つかるまで、探求は止めないのです。
けれども、霊的(グノーシス的)な観点から見れば、そのこと(探求)自体が、霊性回帰のポーズであるということです。
従って、心理次元において、どこまで行っても、本当の原因は見つからず、それでも、何か原因(と解決策)という「宝」はどこかに埋まっているはずと、掘削作業を続けていくのです。
心理的要因(原因)を追求してはならないということを言っているのではありません。
その段階は人によっては必要なものですし、実際にそれで楽になったり、救済されたりすることはあります。(だからセラピーは有効で、セラピーの方法もたくさん存在しているわけです)
ただ、セラピーは個のレベルでは終わっているのに、「まだまだだ!」と、さらに先に進もうという人は、まるで賽の河原の石積みのように、積んでは壊しを繰り返している状態でもあるわけです。
さらには、個の次元を超えて、集合的無意識の世界(のネガティブ要因)まで背負おうとしている人もいます。(そういう役割を自覚・自認している人はいいのですが)
すべてを一気に統合しようとしたり、浄化しようとしたりせず、正義と悪の分離をきちんとしたままで、自分が認められるものと認められないものを分けて考え、段階別に割り切る(処理できる能力と範囲を厳然とし認識する)心も必要だと思います。
掘削作業をし過ぎている人は、同じレベルの問題を、「見方や論点を変えてまた新しい問題として再生させている」という、自作自演の「問題のゾンビ状態」に気をつけ、はまっているループ地獄から出る視点を持つことです。
それは問題を見る(原因・要因、解決策の探求をする)のではなく、問題そのものから離れる(問題もひとつの事件や悪として象徴化して受け入れ、ひとつのパターンとして自分の歴史として風化させる)ことなのです。(単純に言えば、現実と将来に目を向けた、次に向かう未来志向)
もちろん、先述したように、心理的問題を分析し、それを解消していく段階も必要な人はいますので、それはそれでいいのです。
しかしながら、ずっと堂々巡りのようになっている人や、近頃はわざと商売的に心理的問題の解消のセラピーが必要だと、大げさに宣伝されて、ありもしない問題まで自分で作り上げてしまう(あるいはや、他人によって作り出されてしまう)場合もあるので、そうした注意を述べているわけです。
マルセイユタロットにおいても、タロットの人物の視線によって時系列が表現され、過去側(それは内面とも言えます)を見ているのではなく、未来(新しいもの、新ステージ、新次元)側に視線を切り替えていく重要なポイントが、きちんと示されています。
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