正しさの判断がわからなくなっている人に。
マルセイユタロットの全体としての見方では、上昇や下降しての、いわゆる「レベル」や「次元」の上下という成長(調整)方向と、それとは異なる、すべてをひとつと見ることを前提としながら、逆にバラバラに分析していくような方向性(分離と統合)とがあります。
実はその両方を同時に見ていくことが鍵でもあるのですが、こうした物事の把握の仕方をしていくと、矛盾しているようなことも、案外と自分の中では整理したり、理解したりすることが可能になることがあります。
例えば、物事には順序・段階があり、何事も簡単にできるものではなく、ひとひとつの積み重ね、様々な経験を通して成長していくものだという考えがあります。
これがさらに強調されると、成功や目標、幸せも、簡単には手に入らない、それ相応の努力と、確かな経験を積まないと達成(完成)しないのだという、実は皆さんが好む、サクセスストーリーの裏話(実は影ではものすごい努力をしていた・・・みたいな話)のようなことになります。
ところが、現実には、努力をしなくてもうまく行っている人もありますし、目標に向けて、それなりの作業や行動はあったとしても、それが「努力」や「つらいこと」「苦行」「成長のためのたくさんの経験」のようなものとして、必ずしもいるわけではないこともあります。
また、最近では、心理系・スピリチュアル系ではよく見られる主張ですが、努力とか、頑張ることはしなくてもよい、自分がしたいこと・したくないことをはっきりさせていくことで自分らしさが出せて、周りの人も「自分(周囲から見れば「あなた」)」のこともよくわかってもらえて、のびのびと生きやすくなるという人もいます。
そうかと思えば、人としての成長は、たゆまぬ努力、他人や周囲との軋轢や気遣いなども経験して、大人になるものだという人もいます。いわば圧力や試練が人を成長させるという話です。
まあ、今は後者は時代遅れの話として、嫌われているところがありますが、それも結構誤解されていると思うのは、試練に耐えて成長した暁には、逆に自分らしさを、適切に、しかも自由に出せる胆力とか気風とか、判断力がついているという前提があります。
刀を鍛えて完成すれば、すばらしいものになり、何でも切れるし、防御もできる無敵の刀が誕生するというイメージです。ですが、鍛え方を間違うと、途中で折れてしまったり、曲がったりしてしまうので、鍛えるにしても、その加減が大切ではありますね。
それはともかく、話を戻しますと、これだけ今の時代、いろいろな方が、様々な話をすることで(情報がスコールのように降り注ぐ時代で)、「自分はいったいどうしたらいいのだろう・・・」「誰の言っていることが正しいのだろう・・・」と悩んでしまう人もいると思います。
問題のひとつは、「正しいものがひとつしかない」と考えることにあります。
たとえ真理がひとつであったとしても、この現実次元は、一人一人個性をもって生きている世界です。
従って、すべてはオーダーメイド、処方箋(自分に正しく作用するもの)は一人一人違うのです。現実においても、医者が処方する薬自体は同じでも、その種類の組合せ、容量・用法は一人一人違うことが多いものです。
身体は当然のこと、ましてや思想や精神まで考慮すると、一人一人違っているのは当たり前ですから、正しいものも、人の数だけある世界と考えるのが妥当です。
というのが、上下方向に、成長・下降を考える観点です。レベルの違い、次元の違いで見る方向性ですね。
究極は人は皆同じ、「宇宙」そのものであったとしても、現実次元では個別であること、そうした表現になっており、逆に言えば、「正しさ」というものが、どのレベル(範疇)で述べられているのかによって見ていくと、「正しさ」に関する悩みも少なくなるでしょう。(ただし、同じレベルの中では正しい・正しくないがある世界ですから、そこでの悩みはあります)
しかしながら、上下方向(で見ること)の欠点は、どうしても高い・低いの優劣みたいな段階を投影してしまいがちなので、その階段を登るために、努力しなければ成長できないという発想に囚われることにあります。
そのため、上下ではなく、左右や全体を円のようにしてみる見方も取り入れるとよいです。
上下では、自分が下にいて(あるいは上にいて)、登る(上る)か降りる(下る)かの視点になりますが、円的な観点では、自分を中心に置き、あらゆる要素が周囲に散らばっていると見るか、円そのものが自分であり、その円の中にすべてのものが入っていると見るわけです。
そうすると、自分自身は本来、円として完全、あるいは中心点として、どこに行くこともないし、周り(か、円の内側)のどことも関係しているという図形的特質からの感覚が出てきます。
そこから、「自分はもともと完全だから、欠けていると思っていところや、黒く塗りつぶされている部分を回復させればいいのだ」という発想になってきます。
こうなると、上下方向に階段状に成長していく、試練によって鍛えられていくというのではなく、今、気づきさえすればいいい、自分の中心を取り戻せばいいということになってくるのです。
これは、努力したり、試練を受けたりして頑張って成長するというよりも、自分(らしさ)、自分軸・自分としての中心点を回復させることのほうが重要という見方になってきます。
だから、この観点では、人は一瞬でかなり変われることもあり得ますし、段階を踏まずとも、急に成長したかのようになることもあるわけです。
ただし、これもどちら(上下垂直的観点と、左右円的観点)が正しいかと言っているのではなく、観点をいろいろと持っていれば、「様々な人の言っていることを矛盾に感じたり、迷ったりする自分の心」を整理したり、納得させたりすることができるのだと述べているわけです。
もちろん、人ですから、誰でも好き嫌いのような感情はあります。
「この人は嫌いだから、この人の言うことは間違っている」と感じたり、「あの人の言っている内容は自分も好きで納得できるから、たぶんあの人はいい人だ」みたいになったりすることがあるわけです。
ただ、これも「感情」というものを中心にした見方です。これに対して、よく言われるように、反対概念として「思考」があります。
言わば、心が感じるか、頭で考えるかみたいなことです。
そしてたいていまた、スピリチュアル系統になりますと、心・ハートで感じたほうの選択がよしみたいなことで言われるのですが、ここで、心も頭も、あくまで人に備わったひとつの見方・観点としても見るのも面白いです。
マルセイユタロット的には四大元素と第5元素の思想が伝わっていますので、それを援用すると、私たちは心や頭(で感じたり、考えたりすること)それ自体が本分ではないということであり、結局、感情も思考も材料みたいなもので、それらを判断し、統合する「本質の自分」というものがいるわけです。
てすから、その視点からすれば、心で感じたことが正しいとか、頭で判断したほうが正しいとかの、まさに「正しさ」での発想・悩みとは異なってくることになります。
まあ、人によっては得意とするタイプがありますから、心がセンサーとして感度が高い人もいれば、思考のほうがそうであるという人もいます。性別的な違いも考えられます。
ですが、それは、自分の本質そのものではなく、自分の一部であるということです。(ただし一部ではあっても、違うレベルにおいての全部にもなっているというところが密儀的にはあります)
いつも全体を俯瞰している「魂の部分」と言いますか、もう一人の自分、本質の自分ともいえる者がおり、それらは心や頭で判断する(判断したと思っている)自分とは別です。
その本質に気づいていくことが、おそらく霊的な観点や成長につながるのではないかと、マルセイユタロット的には考察できるのです。
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