災害とお祭りに思う。
今の時期、京都では祇園祭がありますね。
だいたい夏の時期のお祭りは、火除けや疫病除けなどの祈願に関わっているものが多く、ムラでは稲を中心とした作物への、順調な生育への願い(虫除け的なものなど)が込められていたようです。
ところで、このところ、日本では災害があまりにも多くなっています。
これは日本だけとは限らず、おそらく地球規模の変動に関係しているものと思います。これが単なる自然だけの原因ではなく、間違いなく人間の要因もからんでのものでしょう。
というより、人間も地球や自然の一部であると考えれば、災害や天変地異も、当然、人に関係しているものと考えられます。
災害で被害を受けたり、脅威にさらされたりするというような、「被害側」「受容側」だけの意識ではなく、私たちも気象の変化、災害を起こしている側に関係しているのだという加害的・能動的認識も、今必要だと思います。
そこで祇園祭の話に戻ってきます。
祇園祭は、貞観(およそ860-70年)年間に起源を持つと考えられ、最近では、東北大震災の影響で、貞観時代との関連が取りざたされ、災害から見た祇園祭の意味が見直され始めています。
貞観年間は、恐ろしく災害の多かった時代で、東北大震災・津波、阿蘇山・富士山などの噴火、播磨や京都での地震など、まさに日本列島全体が鳴動していた時代と言えます。
そして、現代もおそらく、この時代と同様の、列島の活動期、あるいは災害多発時期に入ったとものと推定されます。
祇園祭も、姫路の広峰神社から牛頭天王という神格を勧請し、疫病・災厄から京都を静めようと祭が始まったとされています。
この牛頭天王が何者であるかを考察するのも興味深いのですが(マルセイユタロット的にもある法則に基づくカードたちで象徴されると考えられます)、それは今回は置いておきまして、ここでのポイントは、災厄を静めるために、その当時、すでに地震のあった播磨地方(今の地名では姫路を中心とする地域)から、強力な神を招き入れ、京都(当時の意識での全国の中心)を安定させようとしたということです。
そしてそれが、「祭」という行為でもあったことです。
災害や天変地異が起こると人は祈りますが、前もって無事や災難に遭わないようにと祈ることもします。
科学的に、祈りは、大地や気象などの自然に何も効果も及ぼさないと、今は考えられているでしょう。
しかし、当時はお祭り(祀り)によって、それを行おうとしていたわけです。
「昔の人は無知だから仕方ないよなあ」「今はただの観光的お祭りでしか意味ないよ」と人は思うかもしれません。
私も下手なスピリチュアルな感じで、祈れば大地が静まるということを単純に述べたいわけではありません。
私は大学時代、「環境民俗学」なるものを提案されていた教授のゼミに在籍していましたので、民俗学的観点で見た環境保護のシステムを知っています。
これとは厳密には異なるのですが、民俗的行事や信仰、行為が、実は意外な働きをしているということがあり、それで考えると、祇園祭も含めて、災厄除けのお祭りとその祈りには、私たち自らの心を安定させる効果によって、環境そのものにも影響及ぼすシステム(メカニズム)が働いているのではと思うことがあります。
私たちが祭り・祀りというハレ的な行事・行為を行うことによって、もちろん、信仰的なものによる、神のエネルギーの発露やその享受という意識も芽生えるのですが、同時に、皆でひとつの大きな行事を行うことで、意志の統一が図られ、厄除けであれば、「厄」すなわち、今の時代でいうならば「災害」に目(意識)を向けることになり、神に祈ること、神に静めてもらうこと、守ってもらうことという「ストーリー」によって、祈る人間自らの心の安定をもたらせていたと考えられます。
これが、多くの人がリアリティを持つ、強い「神」であればあるほど、効果も高くなります。
しかも行事・儀式を行うことで、それが現実に見える形での像として記憶され、その体感により、より「静めの儀式を行った」という安心感(実感)につながります。(敬虔な祈りの部分と、楽しく、あるいは激しく行う祭り行事との融合で、ネガティブな気持ちが解消、浄化、発散される効果もあり)
心の乱れが自然や環境の乱れにもつながると見ると、私たちが危機感を持ちつつも、安心安寧に意識が変化して行けば、自然もまさに「自然に」治まっていくことも予想されます。(周波数との関係も想定できます)
安心することと油断することとは違い、祭りを行うことで、過去の災害の記憶も伝承され、忘れ行く意識を喚起させることに奏功し、防災意識も働いていた(それが静めにも影響していた)のだと推測されます。
ただ祈れば何とかなるという神頼み的なものではなく、自身の内に神性があること、そして、ネットワーク的に、多くの人が意識することでその部分が覚醒連繋し、静めの効果につながっていくと思えるものです。それは受動的なようでいて、能動的なものです。
むしろ静めるというのは結果であり、そのプロセスのほうが重要かもしれません。
現実的に環境整備や物理的なことの防災を進めていくことも重要ですが、一方で、人々の意識・心が、やたらと騒動するような今の時代にあるからこそ、意識を静めていく(調整していく)行為としての神聖儀式、祈り、お祭り(お祀り)というものを見直し、観光や経済、娯楽の側面だけではないことも思い直すとよいのではと考えます。
人は助け合い、共同的に生きているものであり、自分だけがわがままで生きればよいというのでは調和と言えず、全国的災害規模となる今となっては、全体での意識と働きかけが重要になってくると思います。
従って、今のような災害も、むしろ統合のための災厄としてとらえていくと、起こっている(神仏的には怒っている)理由も、霊的には想像できるものです。
そして貞観時代の再現のように今があるのならば、時代は大きなサイクルで動いていることも考えられます。(マルセイユタロットでは、「運命の輪」「力」に関係します)
しかし、たとえ同じサイクル・回転があったとしても、まったく同じことを経験するわけではなく、もっとひどいことにもなれば、もっと軽くなることもあるわけで、それは回転を螺旋の動きとして見れば、堕落と向上の両方の分かれ道があることが見えてきます。
願わくは、堕落や同じルートのループにはならないよう、脱出、次元を上昇する意識と行動にしたいものです。
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