モノと心の成長性と魂の成長性
マルセイユタロットには、前からここでもずっとふれてきているように、霊的な成長の絵図として語られるところがあります。
霊的という言葉が難しい場合、魂的と言ってもいいかもしれません。
ただ、ここでの魂というのは、いわゆる「心」ではなく、もっと深く、高次の部分・状態を指しています。
振動や波動でいうと、高いバイブレーションを持つのが魂で、心はそれより劣ると言いますか、変化の波が激しいものだと考えられます。
スピリチュアルなことに関心を持つと、最初は物質的・地上的とも言われる面への一辺倒な見方から、見えない部分への視点へと移行していきますが、この段階では、「心」の面に注目していることが多いものです。
「自分らしく」とか、「ありのままの自分」とか、そういった言葉で表現される方向性へとシフトしつつも、その「自分らしい自分」というのが、たいていは、心・感情のレベルで語られることがあるわけです。
この感情レベルというのが厄介で、知性においても高い低いのレベルがあるように、感情にも崇高な愛の部分から、低次の好き嫌いレベルまで様々に存在します。
ここが、さきほど言ったように、「心には波がある(すなわち一定ではない)」というところにつながります。
「本当の自分」と思っていたものが、実は単に好き嫌いで見た自分の「好き」を選択した自分、嫌いなものから逃れた自分というものになっている場合があるのです。まあ、平たく言えば、わがままで見るエゴです。
大切なのは、心の面でも、統合的視点、好きも嫌いも見分けて、両面を受け入れ、本当に自分の部分として消化(昇華と書いてもよいです)することにあります。
つまりは単純に好きを選ぶというのではなく、嫌いなことや嫌なこと、避けているところ、見たくない部分など、影にも着目し、その存在をつきとめる(認知する)ことなのです。
感情レベルであっても、素直に好きを選べないのはなぜなのか、もう必要のない、自分を縛っている心のルールはないのか・・・こうしたものを見つめることで、影との統合も図られてきます。
言ってみれば、光も影も仲良くつきあう心に調整するというのに近いでしょうか。
結果的に、より純粋な心の選択ができやすくなり、それは葛藤が少ないものであるがために、生きやすくもなる(たとえ選択した結果が良くなくても、納得できるものである)というわけです。
こうした統合・調整をしないまま、好きなこと、楽なことばかりで動いていると、一時的には好きなことの選択だけで良くなったように見えても、影の部分は常にあるわけですから、事ある毎に、影から存在のアピールをされ、それによって、まさにいろいろな「影響」を受けるのです。
現象・心情としては、「満足したようでどこか満たされない」「順調だと思っていたことが急に悪くなる」「これでいいのかという疑問が、いつもつきまとう」「あと一歩踏み出せない」「何事も中途半端で終わる」「モヤモヤ感がある」「人の言葉や記事にすぐ影響されてしまう」「成功者、カリスマ、順調に行っている人をモデルとしつつも、そうなりれきれない悩みが出る」「うまく行っている他人と自分を比べてしまう」「スピリチュアルな願望達成法に執心(頼って)してしまう」「堂々巡り・ループのような状態に陥る」「好きなことが好きでなくなったり、好きなことが次第にわからくなってきたりする」・・・などのような形で現れます。
心の統合・調整プロセスにおいても、上記のようなことは同じように起きるのですが、違いは、ある段階で抜けたような感覚が伴い、それまで悩んでいたり、疑問に思っていたりしたことが気にならなくなる(あるいは、回答を得たような気持ちになる)ということです。
これは統合による次元上昇でもあります。
タロット講座でも述べていることですが、同じレベルでの好き嫌い・価値観による線引きを続けていても、真の成長は停滞するばかりです。
見た目はうまく行っているように思えても、同じ範囲のところの片面を必死で選択しようと、そこに留まっているだけで、必然、もう一面は切り捨てられています。
ところが、その切り捨てられたほうに、成長の飛躍の元があるのです。
植物でも動物でも、まったくの無機質、光(太陽光・天気)だけでは育たず、そこに有機物、影(雨、夜など)が必要です。
その成長とは、心・感情というより、魂的なものに近いので、成長や飛躍の基準としては、抽象的で見えにくいものでもあります。
よいものだと思っている片面の選択を頑張ってやり続け、その片面だけに留まる状態を長く保つことは、見た目の成長としてすばらしく映りますし、それは現実的・経済的な成功、心の豊かさのように思えるものです。
しかし本当の魂的な意味での成長観点からは、停滞として見えてきます。
一代限り(永遠性の魂を設定しない場合の)、人生の現実的・表面的充実としては、その選択もよいとは思います。
ただ、マルセイユタロットを深くやっていくと、そのレベルとしての人生を扱わなくなり、魂の成長を志向するようになってくるのです。
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