「呼ばれた」感の安全と注意

これは先日配信したメルマガ(講座受講者・修了者専用)に書いたことで、そのフォローの意味と、また一般的にも書いておいたほうがいいかもしれないと思い、ブログ記事にすることにしました。

聖地、神社仏閣などに行かれる人で、そこの神なるものや、特別な存在などから「“呼ばれた”からここに来た」のだと主張する人が見受けられるようになりました。

今回は、そのような存在がいるのかいないのかの争点ではなく、一応、そういったものが存在するとしての前提で、そのような存在から「呼ばれる」という感覚(「呼ばれた」感)はどうなのかということが主題です。

さて、そうした感覚の中には、安全なもの(もしくは当人や他人があまり気にしなくてもよいもの)と、危険なもの(本人や他人にとっても問題と考えられるもの)があるように思います。

安全なものの傾向としてのひとつは、その人に何かしらの感応力(巫女的な能力、次元の異なったエネルギーや存在を感じ取ったり、コミュニケートできたりする能力)があり、実感としてきちんと受容・コントロールできている場合です。

これはもともとの能力とともに、ある程度の修行、自己統制力も必要とされるでしょう。

こういうタイプは、サイキックや心霊的なことのプロ(そういった世界で生きている、生業としている)の人たちに多いもので、当然ながら別次元の存在や通常とは異なるエネルギーへの扱い、作法・儀式、自己と他人への抑制・コントロールにも長けているところがあります。

そしてもうひとつのタイプは、「呼ばれた」感覚そのものがライトなものであり、そのため、影響もライトなものになるという種類です。

例を挙げれば、ライトなスピリチュアルブームに乗って、ちょっとした旅行感覚で聖地を訪れ、そこで参拝などしてるうちに、「なんかここの神様に呼ばれた感覚がする~ありがとう~感謝♪」みたいな感じのものです。(笑)

一見、ふざけているようでもありますが、聖地を訪れるという純粋な感覚は持ち合わせており、意外に本人たちには、その時(聖地にいる時)はまじめな部分で参拝しています。

それでも、全体としては、やはり旅行の一環のようなもの(ライトなもの)でもあります。

しかし、もし神様のようなものがいらっしゃるとすれば、まるで、おじいさんがかわいい孫を見るようなもので、旅を楽しんでいること、神や自然は敬っていることは伝わって来ていて、たぶん(神様は)大目に見てくれるものだと考えられます。

これに対し、問題なのは、「呼ばれた」感覚にかなりのリアリティを本人が持ち、壮大な役割とか、特別な使命を言われたと信じ込むようなケースです。

それも、俗地、日常生活を行っている場所にいる段階から「呼ばれた」感か強くなり、居ても立ってもいられなくなり、とにもかくにも聖地や神社などにかけつけます。

そうすると、そこの神様から語りかけられて、私の使命を告げられることになっていた・・・みたいなストーリーが典型です。

しかも、その旅の過程において、「私が訪れることがすべて決まっていた」「次々とシンクロや特別なことが起こり、これが真実だと告げていた」・・・というようなものも、よくこのストーリーには付随します。

このようなケースで注意する(疑問に思う)ことは、まず、神様と崇敬される特別(異次元)の高次存在が、なにゆえに、普通であるその人を呼ぶのか? 使命を与えるのか? ということです。

先述したような修行をしてきたり、特別な巫女的な能力の家系に生まれてきたりした人などは別としても、普通の、ちょっとスピリチュアルに関心のあるくらいのあなたが、なぜ神様に選ばれるのか?ということになります。

これは心理的には、裏を返せばわかることで、つまりは特別な存在に選ばれる=私は特別である、特別でありたいということであり、さらには、そう思うことは、そのままの自分という存在に価値があまり認められない、人と比べて自分を見て、どこか劣っていると思っているという心の構造が見えてきます。

そもそも、わざわざ呼ばなくても、高次な存在なら、時間と空間を超越し、あなたのいる今の場所にコミュニケートすることは可能でしょう。

ストーリーとしては、困難だと思える所や、通常の人ではたどりつけないと言われる場所に自分がたどりついたこと(試験にクリアーする物語とか、ほかの人では扉が開かなくても自分には開くというもの)、それは、物語創作のうえでは人を感動させたり、面白くさせたりするセオリーであり、この場合は、「自分を感動(洗脳)させている」わけです。

だから、「呼ばれて(選ばれて)」「行く」ほうが、自分の特別感(ストーリー)のためには(都合が)よいのです。

それから、ここまでではなくても、自分のやっていることに、どこかしら自信や確信がなく、神的な特別な存在からお墨付きのようなものをもらったという感覚(ストーリー)によって、自信を得る仕組みになっていることもあります。(見方によっては「神の名」を利用していることと同じです。しかし、神託を得たい気持ちも人にはありますので、一概には悪いこととは言えませんが)

あと、これはあくまで私見ですが、もしサイキック的な影響がある場合、それは神とか(高次存在)ではなく、人の思念、または低次存在から来ているということも考えられ「呼ばれた」と思っている人の中には、結構こうしたものと高次のものとの区別がつかず、誤解しているようなことも多いのではないかと推測されます。

そうした(人や低次の)存在からのものでは、「呼ばれた」のは、興味本位目的や、あなたを惑わして、それを見て楽しむという「余興」のためとかであり、また、あなたの生命エネルギーを奪うためなどのことも考えられ、あまりよいものとは言えません。

「呼ばれた」感を中心として、やたら壮大で綿密な、自分と神様との救済物語のようなものがあり、それが本人が何か言う度に内容が変わっていたり、強迫的なものとして、その人自身の自由な行動に制限がかけらる状態になっていたりする時は、心理・精神的には「統合失調症」のおそれも否定できません。

他人から見て、あまりにもひどい押しつけや妄想的になれば、それは病的な状態とも言えますし、その人と交流している周囲の人にも混乱が及びます。

一方、「呼ばれた」感の中でも、現地(聖地・神社仏閣など)に行ってはじめて感応するような場合もあります。

これは少しニュアンスが違い、「呼ばれた」のではなく、その場所自体や、敬われている存在(像や絵で象徴化されていることが多い)に対して、何かしら自分に理由がある、因縁(良い悪いどちらでも)があると考えることができます。

現実的な理由・縁(何かの思い出とリンクしていた、たまたまその場所の雰囲気と自分の気持ちが合ったなど)もあれば、前世的データや見えない部分での縁もあるかもしれません。

人間には物質的・常識的・肉体部分で感応する部分と、それを超えたり、通常は隠れて見えない部分だったりするもので感応するところがあります。

いわば、アンテナ能力が複数層に分かれているようなものです。

人から崇められたり、祈りを捧げられたりした場所は、人々の様々な思念も溜め込まれていると考えられます。

そうしたものと、今の自分の中にある何かのデータとリンクすれば、反応を起こすことも想定できます。

それをと言えば、縁なのかもしれません。

心の鍵のようなものが、ある聖地的な場所や、神・仏の祀られているところと感応して、開く場合もあるわけです。

例えば、ある観音像を見て、自分のなかの観音心(癒しや救済の力)を想起させ、自らで自分を救う気持ちが生じることがあります。

つまり、仏(神)像は、その仏(神)の表す特徴によって、人である自分のその特質の神性・仏性を目覚めさせる役割もあるわけです。

またこれまで祈られてきた人々のそれぞれの思い(それは悲しみや苦しみもあります)が仏(神)像、聖地の場所に溜め込まれ、それらの内の何かが、自分の中で受け止め、感応することもあります。

(歴史などを調べると、その像や場所に捧げられた祈りの質と、集団の背景がわかって、自分と心理的、前世的に関係していることがわかることもあります。いわば、共鳴した理由とでも言えるものです)

それは自分に似たところや何かしら関係があるためで、やはりご縁と言ってもいいでしょう。

このようなものは、(外から)「呼ばれた」感とは違い、自分自身が神仏の象徴を通して呼び起こしたものと考えてよいと思います。

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