問題を解決したくない人

タロットリーディングでは、様々な問題を持った方が現れます。

皆さん、当たり前ですが、何かの悩みや葛藤、問題を解決したり、よくなりたいと思われたりしてリーディングを受けられるわけです。

ところが、おかしな話になるのですが、(医療的な)病気と治療で例えるとするのならば、病気に罹っているのに、治りたくないという人がいるのです。

タロットリーディングで言いますと、本当は問題を解決したくはない、ということです。

ただし、ここがまた不思議と言いますか、奇妙なことになるのですが、本人の自覚している意識(表面意識)では、治したい、癒したい、解決したいと思っているのです。

さきほどの医学的な病気と治療の例えを使いますと、医者に診てもらったり、病院へ行ったりして治療を受ける意志は当然にあるのです。

現に、本人は病気で痛かったり、つらかったりしているわけですから、その苦から逃れたい、楽になりたい、正常に戻したいとは思っているのです。

しかし、奥底の意識、別の自分としては、治りたくない、「この野郎、治すのなら恨んでやる!」みたいな(笑)ありえない心(自分)が存在しています。

この理由として考えられるのは、一種の不幸自慢というか、不幸にいること、苦しいことが本人にとっては得になっているということがあげられます。

幼い子どものように、病気でいればお母さんが気にかけてくれる、周囲の人が労ってくれるというような感じで、問題のある自分というものが、その人の何らかのメリットになっているわけです。

メリットとしては、気にかけてくれるというだけではなく、時には経済的なこと(お金が問題状態にあったほうが得られるなど)であったり、何かの責任から逃れられる状態だったりします。

例えば責任逃れだとすると、「私はこんなに不幸で問題を抱えている弱い人間なので、大したことはできません、働けません、一人前のことはできないんです・・・助けてください・・・」みたいな同情をひくような形を無意識に演じているわけです。厳しくいえば、一種の逃避です。

それから、意外な部分では、「癒しを味わいたい病」というようなものもあります。言い換えれば、癒しやヒーリングの中毒症状です。

これはまた逃避よりも厄介です。(実は本質的には逃避と同じですが)

自分の根本的な問題を相談したり、浄化したりしようとせず、その一部や、別の問題に置き換えて、それが癒されることで心地よくなり、自分が変わったり、良くなったりしたほうに錯覚するものです。

根本的な問題について、一挙には解決されないので、少しずつ癒していく、浄化していくという過程では、似たようなことは起きます。

しかし、癒しの中毒症状では、本質・根本の問題に行き着く前に逃げ、別の問題、当たり障りのない、でも本人の意識のうえでは重要な本当の問題と錯覚するようなものを作り上げ、それをヒーラーや相談を受ける者に示すことで、癒され、快楽を得るというパターンになっている人がいるのです。

優れた相談者(相談を受ける者)・ヒーラー・カウンセラーなどは、そのことに気づいていますが、あえて本人の(自分での気づきの)ために見守ることもありますし、中毒を断つために、人によっては厳しい言葉を言うこともあるでしょう。

特に厳しい言葉を受ける場合は、当人とっては、気分よい夢を覚まされるような怖いことにもなりますので、中毒者は無意識のうちに避けようとして、相談に行かなかったり、そういうことを言いそうな人のところを選んだりしません。

時には、厳しいことを言われた時は、その人を非難したり、愛がないと誤解したりすることもあります。(ただし、言う方も言葉やタイミングを選ぶことは大切です)

気をつけてほしいのは、「癒された」「自分の問題が何かわかった!」という気づきの場合でも、一時的な快楽として現れることもあるのだということです。

そして、怖いのは、いつしか、問題の解決や浄化ではなく、癒されることが快楽、癖、中毒のようになって、目的が気持ち良さを味わうことにすり替えられる場合です。(実際にドーパミンなどの脳内物質が出ていることも考えられます)

今の世の中には、たくさんの相談技法や癒し・ヒーリング・治療・浄化のテクニックがあり、それを実施しているカウンセラー、相談者も多いです。

それをいいことに、まるで渡り鳥のように、あれもこれも試し、その度に涙を流し、癒された、自分の問題がわかった、と快楽を得て、また麻薬の効果が切れてくれば、新しい快楽と薬を求めて、自分で問題を無意識のうちに作り、相談者のもとを訪れようとします。

問題と癒しの快楽的ループ(の内にある)と言ってもいいでしょう。

このループ状態には誰しも陥る危険性があります。

それは、先述したように、少しずつの問題解決・浄化のプロセスに似ている部分もあるからです。

ひとつの目安としては、同じような問題を、何度も繰り返し相談していないだろうかと点検してみること、逆に、ひとつ解決すればまた別の問題が次々と現れ相談していないかと振り返ってみることです。

また相談前と後の、あまりにも気分の大きすぎる落差にも注意が必要です。

マルセイユタロットならば、特に「正義」「13」「運命の輪」「神の家」といったカードがこの問題には特徴的に現れますし、また一見すばらしいカードのように見える「世界」も、見せかけの楽園にいること、麻薬の悦楽に浸りたいことを示唆している場合があります。

とはいえ、中毒のようになって逃げることも、守りたい強烈な何かがあるのです。

今、それに向き合うことは自分の存在そのものを失ってしまうかのような、(無意識にあっても)本人とってはとてもつらくて怖いことなのです。

本当の麻薬でなくても、私たちは何かに中毒になっていることはよくあります。

そしてその中毒症状にある時、やはり毒を快楽として味わうことをしないと、やり切れないほどの何か大きな問題を抱えているわけです。

中毒者を非難するのではなく、その悲しみ、つらさ、空虚感も考慮すべきです。

本当の麻薬は別としても、何かの中毒が、必ずしもすべて悪いとは言えません。本人の大切な何かを保護していることもあるのです。

しかしながら、やはり中毒は中毒なのですから、最終的には決意し、これを断つ覚悟が必要でしょう。

ですが、ループを繰り返している内に、ちょうど外堀が埋まられて本丸に近づけるように、一時的には中毒であった表面的癒しの繰り返しも、やがて満期を迎える(フルチャージされる)と、本質的な問題に向き合う覚悟もできることがあります。

案外と怖いと思っていたことでも、外堀が埋められたことで、そうでもなくなってくるものなのです。

こう見ると、よい中毒というものもあり、本当の目的のために、まずは外側にヒビが入るよう、表面的な癒し・浄化作業に邁進させる方向に、あえて舵を取らせているということも考えられます。

世間にはいろいろな愛の形があります。その愛は、すべてが自分に心地よいものばかりとは限りません。各レベルでの愛の表現があります。

また自覚的な愛もあれば、無自覚な愛(自分や人にとっては悪とも感じられるもの)もあります。

こうしたことも、言わば、自分の次元が上がった時、それまでの下の次元のからくりを理解することができるものなのです。

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