楽しい、楽な人生の選択で悩む人に
タロットの学びは精神世界やスピリチュアルなことと関連することが多いものです。
そういった世界でよく言われるのは、自己の解放です。
そしてまた、自己の解放と結びつけて主張されるケースで、楽しさや好きなこと、ワクワクするものを選択する人生というテーマがあります。
その趣旨は、結局、楽な人生、楽しい人生(「楽」の字が2回出るように、「楽」が中心観点)が送ることができるかにあるように思います。
ということは、自己の解放は、「楽に生きられるかどうか」「自分が楽しく感じられるかどうか」が論旨にあることになります。
ここで人によっては、反応がふたつに分かれてくるのではないかと思います。
ひとつは、楽な人生というのはどうよ? そりゃ、つらい人生は嫌だけど、ある程度の苦労は必要なんでは?
というものと、もうひとつは、
その通り、苦労する人生なんてわざわざする必要はない、楽しい人生、幸せを感じる人生を過ごしたいというのが一番、またみんなが楽で幸せであってほしい
という感じのものです。
つまりは、「楽」というものに抵抗を感じるか、まったくその通りだと肯定するかです。
前者はいわゆる常識や普通の感覚を持つ人に多く、後者は解放系ともいえる、自身も自由な生き方をし、スピリチュアルや精神世界の先導的・講師的な人物に多いような気がします。
わざと変な見方で言いますと、前者は後者の顧客や信者になることが多く、後者は前者を洗脳することもあります。(笑)
もちろん、よい意味でいうと、前者は後者の囚われを解放し、後者によって、前者はさらに自分の意志と生き方を肯定できる(力・フォースを解放する)ことになります。
後者の人はよいのですが、前者の人はいろいろと「楽」や「自由」について悩んでいることもあるかと思います。
そこで、その悩みに整理をもたらす考え方の幾つかを提示しておきます。
●「苦楽」を「善悪」や倫理観で考えない
苦楽を善悪や倫理の観念と強固に結びつけてしまって、困惑している場合があります。
自らが、楽をすることは悪、楽しいことばかりはありえない、楽をすると必ず罰がある(バチが当たる)、楽して稼ぐことは悪、仕事に楽はない・・・みたいな、世間が作りだした観念・ルール、一種の信仰のようなものに縛られていることがよくあります。その時その時の社会状況や時代の影響も結構あります。
ですから、その考えは本当なのか、例外はないのか、なぜそのようなルールや思いになっているのか、誰にその観念を学び、植え付けられたのか、そういうことを冷静に検証することで、「楽」そのものを中立で考えることができるようになります。
●子どもと大人(未成熟と成熟)というふたつの目で考える
自分が大人なのか、子どもなのか、つまり未熟か成熟か、独立か保護にあるかで、フィールドや分野ごとに分けて考えます。
まだ自分が成熟していない、一人前になっていないという分野では苦労が必要なことがあり、独立している部分、成熟している分野では楽を選択することができる(苦をわざわざ選ぶ必要がない)ということです。
分野は、次元やレベルに置き換えることもでき、自分の成熟した(と考える)範囲やレベルにおいては自由や楽が選べ、さらにそこから成長したり、拡大したりする時には、あえて苦労を選択したり、苦がやってきたりするものだという見方です。
エネルギーや運動性においては、圧縮と解放(によって動き)があるように、プレッシャー・圧力を苦労と例えるのなら、それをかけないと解放や大きなジャンプも導かれないとう自然の摂理からすると、成長のために「圧力」は必然といえます。それを苦として感じるかは、志や目的によっても変わるでしょう。
●「楽」を、本当の意味で自分が楽しいかどうかで見る
楽や楽しさというのを世間や他人の尺度で感じず、あくまで自分の感性でもって見るということです。
他人から見れば、それは楽しそうに見えなくても、自分にとってはそれは楽しい、やりがいがあるというものならば、それは「楽」だと考えます。
これが自分の表面意識では、まだわからないところもあります。
他人はおろか、自分でさえ、「つらい」「苦しい」と思うものであっても、それは自分の奥底の気持ちでは「楽しい」という場合もあるのです。
まあ、楽しさの質や演出が違うみたいなものでしょうか。
同じゲームでも、難しいほうをあえて選択するのが好きで楽しいという、マゾ的でへそ曲がりといえばへそ曲がりなのですが(笑)、そういう選択を魂をしたがっているという見方もできます。
ただ、ずっとそういう(表面的な苦、奥底では楽という)一生ではなく、ある程度の経験が十分にできれば、今度は表も裏も楽をしていく人生という選択に変わることもあるでしょう。
●究極(抽象)次元と個別(具体)次元を分けて考える
多くのスピリチュアリスト、特に先述したような解放系を体現しているような人の物言いは、一元的や究極次元から語っていることがあります。
高い次元、大きな次元からいえばその通りではあっても、私たちは個性を持ち、一人一人違った性格や人生観、生育史を持ちます。
よって全員に共通して通じるところと、一人一人、程度や割合、さらにプロセスとして、異なってくることがあるのも当然です。
要するに、人の言うことは鵜呑みにしたり、全部が正しいと受け入れる必要はないということです。
違和感を持ったり、反感があったりしても、それが個性としての今の自分なのです。
しかし抵抗や反感もよい刺激になるので、そのことをきっかけに、自分が成長したり、もっと解放できたりすることもありますから、悪いわけでもないのです。
自分なりのステップとやり方で、自由や楽を目指せばよいですし、その間に苦や痛さの経験があってもよいと思います。
●やり方や方法よりも、あり方や器を変える
もしくは、イエスかノーかの考えをやめる
楽を選択する人生がいいのか悪いのか、ワクワクしたり自分らしく生きたりすることがよいのか悪いのか、それは正解なのか間違いなのかというように、どちらがいいか・悪いかというイエス・ノー的な二元的考えに囚われると、結局、葛藤と争い・相克の世界に自分を置くことになって、それがそもそも「楽」ではなくなってくるという矛盾、本末転倒な状況を生みます。
また何とか楽をしたい、楽しく生きられるようになりたいと、方法やメソッドばかり探して、自分自身のあり方や自分の器、枠をそのまま放置してしまっていることもあります。
方法自体がよくするのではなく、方法によって自分を縛っているルールや枠、または小さな器を壊したり、大きくしたりすることのほうが大事です。
それは一言でいえば「統合」または「次元上昇」と言えます。
楽しいと思うことを選択するより(楽しいを選択していると人生がうまく行くというより)、苦や楽と今まで思っていたことが、どちらでもなかった、そう判定していたレベルの自分に気づいたということが(人生を楽しいと感じるレベルに自分が上昇する視点を持てば)、結局、「楽」な状態になっていることと同じになるのです。
ただ、「楽しい」「楽」を選択していくことで、自分の考えや枠、タガがはずれ、自然に次元が上昇していることもあります。行動から結果を起こすという方向性です。
それは先述したように、人によって個性があるので、選択も違ってくるでしょう。
ほかにも整理する考え方は色々ありますが、今日はこのあたりにしておきます。
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