ロマンチック(を自分に)あげるよ
先日、声優の鶴ひろみさんが大動脈剥離で他界されました。
高速道路で車を路肩に止めて、ハザードランプまでつけての最期だったということで、死が迫る激痛の中、まともに運転できない中での車の処置はすごいとしかいいようがありません。
鶴ひろみさんと言えば、アンパンマンのドキンちゃんなど、いろいろなアニメでのキャラを演じていらっしゃいますが、やはり私には、世代的にもドラゴンボールのブルマ役(特にブルマが若い頃のもの)がもっとも印象的です。
鶴ひろみさん声の「孫くん」が、すぐ脳内再生されます。その声がもう聞けないとなると、限りなく寂しい思いがします。心よりお悔やみ申し上げます。
アニメファンにとって(そうでない人も)、自分の幼い頃、若い頃に聞いていた声の持ち主である声優さんがお亡くなりになることは、とてもショックがあります。何かその時代の大切な何かを喪失してしまうかのような感じです。
そんな鶴ひろみさん声のブルマをもう一度聞きたくなり、元祖のドラゴンボールを改めて見ていました。
ドラゴンボールは、今では世界中の人が知る有名な漫画・アニメとなり、今も新シリーズがアニメとして放映されていますが、やはり、元祖、一番最初のものは少年ぽさ、冒険もののワクワク感にたまらないものがあります。
初期のアニメのエンディングは、そのブルマがメインで描かれていて、「ロマンチックあげるよ」という歌になっています。この歌詞と曲がなかなかにいいものです。大人になった今だからこそ、余計に心にしみるものがあります。
その歌詞は、「わかったふうになってあきらめたり、型にはまったりしていてはダメだよ、もっとロマンを感じて、ワクワク感を思い出して、勇気をもってやってみようよ! そうしたら世界はすばらしいものを見せてくれるよ、いや、世界はすばらしいものだと改めて感じることができるよ!(超意訳です)」というような意味に、私には取れます。
まあ、だからと言って、ここで子どもの頃のような気持ちになって、活き活きと行こうよ、純粋な心は大切だよ、というつもりはありません。(笑) そんなことは当たり前というか、誰でも言えることです。
大人は大人なりの心とルール、認識があり、また同時に、子どもには子どものそれがあります。
大人になったからこそ、無茶というものがわかってきますし、逆に、どうしても社会のルールに治めよう、他者や外側のものに合わせよう、適合させようとなっていくのも当然になってきます。
時にロマンチスト、特にリアリスト、そのバランスと波によって、人生を泳ぎながら味わっていくものだと思います。
私がこの歌詞を今聴いて、改めて思うのは、「この世界の仕組み」や、「生きることの意味(意義)」のようなものです。
一言でいえば、「現実という世界のゲーム感」でしょうか。
自分が「知らない」という状態は、「知りたい」という欲求を生み出します。
そして、見たい、知りたい、経験したい、という冒険心として私たちを突き動かします。タロットでいうと「愚者」になるわけです。
「知らないこと」と「知ること」(「経験していない」ことと「経験していること」)との間、その瞬間(プロセスと言ってもよい)こそが、実は宝物なのかもしれません。
なぜならは、もっとも「ない」と「ある」(知らないと知る)が融合する瞬間だからです。スパークする瞬間とも言えますし、二元が統合する至福状態といえるかもしれません。
最初からすべてを知っていて、それが簡単に思い出せるようになっていては、何のワクワクもドキドキもありません。スパークするエネルギーが生み出されないと言ってもよいでしょう。
だからこそ、私たちはこの世に生まれた時、本当は魂レベルでは知っていても、すべてを忘れ、一から始める設定で人生を生きていくようになっているのだと思います。
まれに真理や悟りに至って、居ながらにしてこのゲームを攻略する人もいるのかもしれませんが、なかなか一筋縄ではいかない超難関、かつ、スリルと興奮あふれるゲームです。
この世界を楽しむ秘訣は、つまるところ、知らないことを自覚し、知ろうとすることにあるのかもしれません。
とすれば、知った風になってしまうこと、わかったふうになることは、ゲームをつまらなくしてしまう大きな要因でもあります。
(喜びをもって)知るには、心をオープンにし、自らが経験すること、そして人や周囲のものからも教えてもらうことであり、反対に、自ら知ったことを人に教えることで、知ったと思っていることが、実はまだまだであった、もっと次の段階があることに気づきます。
すると、また楽しみが増えるわけです。
ただ、心やハートをオープンにするというのは、まったく疑いを持たないとか、バカになることとは違います。
思考や論理を働かせて、物事を見極めることを許す、受け入れるという心のオープンさも含まれるわけです。(思考を排除することが必ずしも、マインドオープンになるとは限りません)
さらには、この世界のゲームそのもの(ゲームシステム)を知ろうとするワクワクもまたありだと思います。それもまたロマンであり、冒険なのです。
冒険には準備と仲間がつきものです。(一人でもできますが、仲間がいたほうが楽しいですし、助け合うことができます)
大人には大人の冒険のやり方があります。それでも、内面や象徴的には、子どもの頃の冒険と同じなのです。
冒険でも、あなたが主人公である冒険物語と、ほかの人が主人公で、あなたはそのパーティーの一員、サブキャラの物語があります。
どちらの立場からも考えてみると、(現実における)冒険というものが、同じシーンでも多重に構成されていることがわかります。
ロールプレイングゲームのように、ある条件が整うと発動するイベントというものが現実でもあるように思います。それが「運命」と呼ばれるものものと関係している可能性もあり、カルマとの関連もあるのかもしれません。
つまりは、冒険やイベントは、自分がしようと思っていなくても発生することがありますし、また、やはりイベント発生の条件を整えるためには、人に会ったり、何かを経験したり、考察を深めたりの、自分のレベルを上げていくことが必要なのだと考えられます。(イベント自体も自分の成長のためにあると言えます)
人生に、場面や時々において節制とコントロールはいりますが、全体的には自分が拡大成長、ゲームを楽しむという意味もあると考えられますので、自分に制限をかけるより、やりたいことを悔いなくやっていくのがよいのではないでしょうか。
自己を抑制し、ルールや掟を身につけて社会に適応する必要のあった若い時代は別として、もう十分に大人になった年代の人たちは、自分の気持ちに正直に、まさに自分を生きる、自分の個性を表現していく、自らの本当のしたかった冒険をしていくという生き方にシフトしてもいいと思うのです。
あなたの中の7つのドラゴンボールを集めましょう。
なお、マルセイユタロット的にも「7つ」は重要な象徴でもあり、グノーシス的には7つを超えることが命題にもなります。つまり、7つが集まる(7つを超える)ことで願いが叶う(真実に到達する道が開く)のです。
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