原因追求から創造的スタイルへ
悩み事や問題がある場合、その原因を追及し、排除することで解決するという方法があります。
健康問題を例にしても、体の不調があって、よく調べて見ると、ある食べ物のアレルギーが原因であったとか、何かのウィルスに感染していたとか、骨が弱っていたとわかったとか、とにかく不調の原因が判明し、その対処や治療・手術をすることで不調がなくなる(健康を取り戻す)わけです。
ですから、原因を突き止めることは、問題解決では最も重要な手段・方法だと考えられているところがあります。
経済的問題、精神的な問題、生き方の問題・・・人はあらゆる悩み・問題を抱えますが、それも上記の健康問題のように、原因さえわかれば何とか解決する、良くなると思われてしまうのも仕方ない面があるでしょう。
しかし、果たして、本当に原因さえわかれば良くなるのでしょうか?
いや、もっと別の言い方をしますと、原因解明が本当にすべての救いになるのかどうかということです。
最初の健康問題の例に戻って考えますと、なぜアレルギーになったのか? なぜウィルスに感染したのか? なぜ骨が弱ったのか? そのタイミング、自分という個体、環境、あらゆる場面での数々の選択・・・このように様々なことを考えると、原因はまだまだ先に山ほどあると言えます。
また、問題の原因はただひとつのことと断定できるものでもなく、色々な要素・要因が重なって複合し、まさに「問題」という現れ方そのものが、実は原因(原因と結果がひとつのもの)みたいに、逆(というより循環的)に考えることも可能な気がします。
もちろん、だからと言って、原因追及の道が悪いと言っているのではありません。
その態度と行動が、やはり科学的な発展をもたらせたでしょうし、そうした姿勢は問題解決において、重要なことのひとつであるのは間違いないと私も思います。
何より、原因がわかれば安心するという人の気持ちの作用もあります。(安心すること自体が、すでに解決になっていることもあります)
ただ、あまりにも問題=原因追及が必要とし過ぎると、原因さえわかればOK、原因を取り除けばすべては解決するというような直線(短絡)的思考と、原因を深く細かく、どこまでも追い求めていくことになって、まるで泥沼にはまったかのように、延々と探し続けることになる恐れがあります。
言ってみれば、「永遠のもぐらたたき」、「賽の河原の石積み」みたいなものになり、それこそ、その人の心は「地獄模様」になって、いつまでも晴れることがなくなってしまいます。
確かに、痛みとか苦しみが続いている場合、原因がわかって、その対策ができれば消失するという思いがあるでしょうし、実際の苦しさ・痛みは、なっている本人しかわからないものです。
ですが、中には、客観的に見れば、そんなに苦しいわけではないはずなのに、原因がわからないから苦しい(原因を探し続けるから、余計苦しくなっている)という自分の生み出す地獄の中でもがいてしまっている人がいます。
視線の方向さえ変えれば、今、そして未来をもっと明るく生きていくことができるのに・・・と思ってしまう人を見かけるのです。
時代は大きく変わってきています。
今まで秘められていたことも公にされ、過去のデータはあくまで参考程度にしかならなくなり、もっと言えば、まったくあてにならなくなっている部分もあるのです。(新しいフォーム、新しい基準、新しいアイデアが活きる時代への変化)
過去の具体性はほとん無視してもいいくらいで、もし参考にするのなら、具体ではなく、象徴的なものであり、それそのものはおそらく不変といえる宇宙的な原理です。
そうした普遍的で不変的原理は、具体的な人物・モノとかの名前や文章ではなく、イメージや形のようなものと言えます。
原因を具体的に求めようとすると、言わば過去に目が向いてしまうのと同じで、それ(探し当てようとするもの)は、実は原因のようでいて原因ではないという事態になってきます。
もうこれからは、今と未来に目を向けて新しいフォーマットに書き換えていく時代でしょう。
それは一言でいえば、「創造」(裏では破壊でもあります)と言えます。
今後は、問題は問題として認識しながらも、それを過去目線(原因追及)で解決するばかりの姿勢ではなく、未来に目を向け、課題として見たり、まったく見方を変えたりする(問題を新しいアイデアのための通過儀礼と見る、触媒、刺激として見る)ことが求められます。
結局、新しいものが生み出すことができれば、過去における問題の原因は、原因とはならずに消失する可能性があるのです。
SF的に言えば、新しい肉体の自分になったので、過去の肉体で悩んでいた部分にあった病気の原因すらも、新しい肉体では意味をなさなくなるみたいなことです。
つまり、次に進む(進化する)ことで、過去では、問題と原因が結びついていたその構造も変容し、結びつきも解除されるどころか、そもそもの構造・システム自体が変換されているので、問題にすらならくなるということです。(問題と感じられなくなっているので、そもそも原因を追及する意味をなさない)
マルセイユタロットを扱うにしても、どう成立したのかとか、誰が作ったのかとかを探求し続けたり(意味がないわけではなく、それも大事なところはありますが)、また過去の密儀的なものを後生大事に「具体的名前」で守っていくというスタイルを続けていくのでもなく、なるほど、古い時代に作られたタロットではあっても、そこに記されたシンボル・象徴性において、不変的な型を考察し、今と未来に向けて、これからを文字通り「創っていく(創造的)」方向性を、私は考えているのです。
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