「愚者」と「智者」

タロットカードには「愚者」というカードがあります。

大アルカナと呼ばれる22枚の重要なカードのうちでも、数を持たないカードとして、特別なカードと言えます。

諸説ありますが、トランプとタロットの類似性と同起源説を考慮すれば、タロットの「愚者」はトランプでの「ジョーカー」に該当するものと考えられます。

トランプゲームは、皆さんも経験があると思いますが、ジョーカーの役割を思い出してみてください。

たいてい、ジョーカーは、どのカードにもなれるオールマイティのカードであったり、場を変える(時にはゲームルールさえ無視できる)「切り札」でもあります。

これは、逆に言えば、タロットの「愚者」も同じような性格があると言えるのです。

オールマイティーなのも、「愚者」に数がないからであり、どの数のカードにもなれる、もしくはとじの数のカードにも規定されないということになり、まさに自由性が強調されますし、ある意味、どのカードも内に含むとなれば、「愚者」は最強で、この一枚そのものがタロットだと、たとえられてしまうかもしれません。

実際、タロットリーディングのケースによっては、「愚者」が出れば、不可能も可能にするダメだと思っていても驚くような解決策や突破口があると読むことがありますし、その反対に、順調かと思いきや、思わぬアクシデントや混乱に注意と読むこともあるのです。

それほど、「愚者」のエネルギーは強力だと言えます。

ところで、「愚者」は、言ってみれば、「愚か者」「バカ者」、関西弁では「アホなヤツ」となります。(笑)

バカやアホ、愚か者になることは、一般的に嫌われますし、普通はなりたいくないと思われる存在です。

ですが、時々言われるように、「バカになってみろ」とか「アホもたまにはよし」とか、正しく、まじめに生きることがだけがよいこととは限らないという意味で、慣用句的に使われることがあります。

「愚か」という言葉、バカになること、アホになることに強い拒否感、忌避感がある人は、やはり、まじめに一生懸命生きることが正しく、それこそが報われる人生なのだとすり込まれているところがあるかもしれません。

一方で、ことさらバカを強調し、どんな時でも場をわきまえずに、愚か者のパフォーマンスをしてしまう人がいます。

こういう人は、タロットの「愚者」としての強力なパワーを本当に持つのではなく、そのパワーにあこがれて、人とは違ったことをして注目してもらいたい、私は、オレは人とは違う、当たり前の人間ではない、天才であるなどとアピールしたい欲求が隠されていることがあります。

言ってしまえば、強い自己否定、自己卑下、自信のなさと不安にかられているのです。(その裏返しによる強い承認欲求)

ところが、今の時代、ネットなど、簡単に自分から発信や表現ができる道具が備わっていますから、かなりそういったパフォーマンスが人目につき、人々の心に何らかの印象を植え付けやすい様相を呈します。

つまりは、発信している側の当人の本質は「愚者」ではなくても、外向けの「愚者」を演じることが、本当の「愚者」のエネルギーにふれている人(特異な才能を持つすばらしい人がいる、常識を打ち破るすごい人)だと、受け取る側が誤解しているところも多くなっているのです。

それでも、この現象は、必ずしも悪いわけではありません。何事も両面があるものです。

たとえ、偽物の「愚者」であったとしても、そういうパフォーマンスに何か心を打たれたり、影響を受けたりするというのは(注目してしまうのは)、受け取る側に「愚者」を待望している心があるからです。

もっと言えば、自分の中の愚者魂ともいうべき、愚者たるパーソナリティがうずいている(反応している)のです。

そこに気づくことにより(刺激を受けることにより)、潜在的な力の発現があったり、自分の気づいていない能力や勇気、パワーをもらったり、あまりに他人や外のルールに縛られて、自分自身を生きてきていなかった人に自覚を促したりする良さがあります。

タロットの「愚者」(の示すもの)は、原初の創造性のエネルギーとつながっており、決まりきった形、固定して進化が止まり、停滞と淀みの中にある枠・社会・心を破壊して元の原初にかえす役割を持ちます。

本物であれ、偽物であれ、実はその背景に「愚者」というエネルギーが憑依し、あるいは、「愚者」という存在が、外に出ようとふざけて(笑)、演劇を施しているのです。

そのことを知ってか知らずか(たいていは気づいていないのですが)、愚者的魅力に取り憑かれた(「愚者」に操られた)演者は、ますます愚か者ぶりのパフォーマンスで、人から喝采を浴びていくことになります。

それを嫌悪する者、迎合する者、すべては「愚者」のエネルギーに巻き込まれています。

しかし、それもまた楽しいのが「愚者」なのです。

現実的にも、心理的にも、また霊的にも、成長において、「愚者」のエネルギーと接触することは必要です。

同時に、強大な「愚者」のエネルギーに自分を見失わず、制御していく部分も重要になっていきます。

「愚者」は、時に「悪魔」の力とも結びつき、先述した「愚者」に取り憑かれたパフォーマーは、自分が「悪魔」(カリスマ)として錯覚し、エゴの肥大によって自己が破壊されていくと同時に、他人を支配することに魅了されていきます。

だからこそ、マルセイユタロットの「愚者」は、その情熱的な赤い杖とともに、その杖のエネルギーを制御した「隠者」と出会うような視線の方向と順番になっているのです。

「隠者」の智慧は、「愚者」が破壊に走ることを止め、そのエネルギーをコントロールし、自らの運命を変えていく「運命の輪」の段階へと導きます。

「愚か者」と「智者」はまさにセットになっているのです。

それから、「隠者」はまじめ一方でもありません。よく日本の漫画やアニメで、卓越した師匠的な人物がギャグ路線の性格であったり、力の抜けた面白人物であったりするように、「愚か」ということを、本当の意味で「隠者」はよく理解しています。

真理の到達には、常識人の知識、振る舞いでは到達できないことも知っているのです。

それゆえ、私たちは、やはりまずは「愚者」になっていくことが求められます。

しかしそれは、「愚か者」のふりをすることではなく、また人と違ったことをすれば認められるという承認欲求に基づくパフォーマンスでもなく、魂を自由にしていくことを知る「智者」であることなのです。

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