数多(あまた)いる本当の自分

明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

日としてはただ一日変わるだけなのに、年が変われば何かが変わったような気がするのは、人間の面白い心理で、これには舞台装置が大がかりであればあるほど、つまりは環境的に・社会的に雰囲気がそうなればなるほど、個人も気分的に信じやすいということはありますね。暦がなければ、いったい、毎日はどんな意識になるのか、興味深いところです。

それはさておき、「変わる」ということで言えば、変わらないこと、変えられないことで悩む人も、昨年(というか、ここ最近)は多かったように感じます。

ややこしい話ですが、「変える必要もない自分に変わろうとする自分に悩む(笑)」というパターンの罠に、はまった方もおられるようです。

これでは、何を言っているかわかりませんよね。(笑)

つまり、「変える必要のない自分」とは、本来の自分(偽っていない自分)という意味と、「そもそも変えなくていいんじゃね?(苦笑)」という意味での、変える必要のない自分(今の自分ということ)があるのです。

だからふたつの意味があります。

ひとつは、ありのままの自分、本来の自分というものがあって、それには気づいているものの、そうなれない自分に悩んでしまうということ。

もうひとつは、本当の自分や、自分が本当に求めているものが何かわからなくなって悩むというパターンです。

前者は、本来の自分というものがわかっている、つかみかけていますが、後者は、その本当の自分というもの自体がわからないということで、どちらにしても、「今の自分とは違うものに変わらなくてならない」と苦悩するので、前述の文章のような「変える必要もない自分に変わろうとすることで悩む」ということになるわけです。

これは、他人に影響され過ぎが大きいかと思います。

それと、変わる=ポジティブという信仰、さらには、本来の自分で生きるのがベストだと思われている信仰があるでしょう。信仰と書いたように、こういうものは真実とは限らないと言えます。

まず、言っておきたいのは、本来の自分や本当の自分は一人(の人格)ではないということです。心の声と言っても、心には何種類もの人格があり、さらには脳の機能がちょっと変化しただけでも、一般的に言われる心(性格)は簡単に変わってしまいます。

本来の自分というものも、固定されるものではなく、波のように変化するものだと考えられます。しかも、その時その時の快適さを求めて、いろいろな自分の中の人格、心の声が内部的に常に争ってもいます。

マルセイユタロットを心理的に観察すれば、このことは容易にわかります。

誰が、何が、あなたの性格を決め、そして自分の性格はこれだとか、本来の私はこうあるべき、と決めるのでしょうか。この問いは簡単なようで難しいものです。

そうは言っても、本来の自分、本当の自分で生きていると自分が思った時(そう選択した時)、私は楽になった、生きていると実感したと言う人はいます。

では楽で活き活きとする自分が本来の自分なのでしょうか?

 

もしかすると、それは仕事や環境が決めているのではありませんか?

自分が変わったからその仕事(環境)を選択したとも言えますが、その仕事(環境)だから自分が変わることができたという場合もあり、どちらとも言えることでしょう。

生きたいように生きると言えば、かっこいいように思われますが、人間は経済や物質も重要で、自分以外の人とも関わる社会があります。そう簡単に、好きなこと(快楽、心地よさ)だけで生きていくというわけにはいきません。

結局、何が言いたいのかと言えば、本来の自分はひとつ(一人)と決めつけたり、本来の自分で生きること=正しいこと、楽なこと、充実することなどと定義づけしりたせず、もっとラフに考えればいかがでしょうかということなのです。

タロット的に言えば、私たちには22(または21)人の人間を抱えているようなものです。

ですから、結局は、その選択で生きているのだと思うと、本質的に「愚者」になれます。つまり、結果より過程を楽しむような姿勢になり、何かを正しく決めなければならない、回答はひとつというスタイルから離れていきます。

もちろん、「本来の自分」「本当の自分」というのを見つけ、「これが私の生きる道」というように生きていくのもありだと思います。

でも、それは、上述のタロット的22(か21)人観点で言うと、やはり、その中の一人を「私」だと決めて、生きていくという形になります。

それ(自分が思う本来の自分とされる、一人の人格・生き方)で、生き甲斐を感じ、充実した人生を送ることができれば、その人物的には成功だと言えましょう。

しかし、そう決められない人とか、本来の自分がわからず、迷ってしまう人、または、現実と理想の狭間に葛藤し、「吊るし」のような人生(でもそれもひとつの選択)を送ってしまう人がいます。

ここで「本来の自分」を発見できない自分に罪悪感や焦燥感を持つ必要はなく、ただその時々の選択として、ひとつの人格・生き方を調整して、選択しているのだと見ると、もっと楽になると思います。

何もひとつと決めずに、「悪魔(エゴや悦楽)の要素」「節制(天使や救済者)の要素」、それぞれ合わせた(混交した)人物でもよいのですし、仕事では「皇帝」(経済・現実・支配)、プライベートでは「星」(貢献・自然・調和)を重視したバランスで行くとしてもよいと思います。

今までは「斎王」だったけれども、今から数年は「愚者」になって、「運命の輪」となり、「力」に変わると決意するのもありです。

要するに、すべては自分であり、自分で自分の選択の責任を取って、どの自分になるか、どの自分で行くかの表現を、自己の心理と、外から与えれ、かつ自らが創造する環境(状態)とともにして行動していけば(生きていけば)よいのだと思います。

「愚者」になるのに時間がかかる人もいれば、突然衝動的に「戦車」となって走り出す人もいるでしょう。

どれが正しい、間違いではなく、どの自分が今は選択・表現され、そのどれもが愛すべき「本来の自分」であり、ただ自分だからこそ、他者ではなく、自分自身(の選択)としての責任もしっかり自覚しておけば、どの自分も本来の自分として活き活きとしてくるということです。

私は簡単に生きたいように生きる人よりも、選択に苦悩し、葛藤し、それでも何とかその狭間においても、固定的に(演じる必要のあったひとつの)縛られた自分だけではなく、ほかの自分も表現しようと見せ始めた方のほうが好きです。

どちらかに決まらないからこそ、それを超えた、どちらでもない、あまた(数多)の自分の姿を見て、結果的に自分自身を受容することにつながり、その自分の宇宙の偉大さを認識していくようになるのです。

本年も、少しでも、マルセイユタロットで、悩める皆様のサポートができれば幸いです。

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