出会いの偶然性と必然性
人と待ち合わせしようと思いますと、今はとても便利になりました。
メールがありますし、携帯やスマホで自分や相手の場所もリアルタイムで連絡しあうこともできます。
場所が初めてのところでも、地図ソフトや案内ソフトがあれば、簡単に手元で調べることもできます。
待ち合わせだけに限らずとも、人やモノとの出会いも、相手や先方さえ同意していれば、望むものを意図的に結びつけることがたやすくなった時代といえます。
マルセイユタロットでいうと、「恋人」カードの絵図における、三人の人物たちの間が、より近づき、コンタクトの確実性を増したと表現できるかもしれません。
言わば、(出会いや結びつきの)必然(性)が増えたという感じです。
とすると、逆に、まったくの偶然の出会いは少なくなったと考えることもできます。
従って、偶然のような出会いがあるとすれば、それは昔よりかなり貴重であり、もしかすると、特別な意味が強くなっているのかもしれません。
先ほどの「恋人」カードで例えると、絵図の上方、天使のようなキューピッドの放つ矢が、下の人間から見たら偶然に見えるので、その矢が今の時代は、かなり強力なものになっている可能性もあるということです。
上述したように、現代は機器の発達により、自らが(機器を利用して)そのキューピッドを演じているともいえ、自分がまるで天使(神)になったかのように、何でも機会を作る上げることができると驕ったり、あるいは、偶然の機会は本当に偶然でしかなく、意味のないものであると思ってしまったりする傾向もあるのではないかと危惧します。
偶然の結びつき(しかし霊的・天上的には必然であるもの)を起こす役割は、「恋人」カードによれば、キューピッド(神や天使)の次元なのだということです。
自分が何でも結びつきを起こせると過信してしまうことは、反対に、自分に必要な情報や人物しか結ばせない、交流しないという態度にもなりがちです。
この、“自分に必要な”という部分が重要です。
自分に必要と言っても、たいていの場合、今の自分にとってとか、物質的・常識的価値観で見た必要性であり、結局、損得とか利己に資するとか、感情の好き嫌いでのモノサシによる「必要性」となります。
つまりは、まだ未知なるところや潜在的に可能性としてあるもの、物質を超える領域や意味においての必要性などは考慮されないわけです。
「必要だったら、自分から求め動くし、ちゃんと地に入れることもできる」と思いつつ、逆に、「嫌なものは避ける」「ブロックする」「無視する」「(利己的な)自分と関係ないものはどうでもいい」という態度との両方が極端になるおそれがあるのです。
マルセイユタロットの「恋人」カードからすると、人間が行う選択と結びつきの領分と、神や天使の持つ天上的選択と結びつきの領分とを、きっちり分けている(分けられている)ように見えます。
本当の選択・結びつきはその両方が交差するところにあるわけですが、人間にはわからない部分があり、そう状態が現実世界であって、人間の持つ責任と領域なのでしょう。
もちろん、マルセイユタロットで示されるように、天上領域をも認識していく発展性(つまり常識的・通常的人間を超える道)は示唆されていますが、うかつに領分を超えて、あるいは浅はかに想像して、天上領域を侵したり、軽視したりするようなことがあれば、本来結ばれるものは結ばれず、または、離れられるところも離れられず、苦しみが長く続くことになるのではないかと予想されます。
今まで述べてきたように、「恋人」カードの絵柄でいう三人の人間たちの(活動)部分は、今や、機器の発達により、天上の天使部分まで侵入してきたところがあります。
それでも、人間では偶然だと思えるような出会い(人だけではなくモノなど全般を含みます)は、むしろ、この時代だからこそ特別なものなのです。縁の連続でつながったり、ふいに偶然出会ったりした機会の重要さ、大切さは増しているのです。
そして、最初から限定したり、今の自分の視点だけで判断せず、いろいろなものに挑戦したり、畑違い、分野違いと思う人とも交流したり、ちょっと変わったこともやってみたりして、毛嫌いせず、間口を広げてみるのが、実は天上領域を広げることにつながるのだと考えられます。
しかし反対に、天上領域を過度に意識し過ぎるのも問題かと思います。いわば、狭義のスピリチュアルを信奉するような態度です。
何でもつながりや縁、出会いを(心霊的ともいえる目線で)特別視して、偶然性をすべて必然で見てしまうような感性です。
過去世からのつながりとか、ソウルメイトだとか、宇宙の星からの転生だとか、神様が用意してくれた出会いであるとか、そんな表現にかぶれてしまうようなことですね。
深いレベルでは、確かにすべて必然と言えそうですが、人間の浅知恵レベル、スピリチュアルかぶれや過度のロマンシズム、熱狂が生み出す妄想的な必然と思う出会い感覚は、理性を失い、アンバランスで危険であるとも言えます。言い方を換えれば、これも天上領域(領分)への間違った侵入になります。
天上領域の出会いは時系列を超えていますので、人間領域だと、あとでその意味がわかることもありますし、最初から直観のようなもので訪れることもあります。
とにかく、私たちは人間として、必要以上に自分を卑下せず(無力な存在とは思わず)、また奢り高ぶらず、人としての応分の努力と、天上からの働きかけの両方を得て、「出会い」を楽しんでいきたいと想うものです。
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