タロットで「幸せ」になれるか。

インフルエンザと思える体調不良で、しばらくブログを休止しておりましたが、回復しましたので、ブログを再開いたします。

 

タロットを習って幸せになれるか(なることができるか)?

という質問や、問いかけ(ご本人なりの願望・思い)を見かけることがあります。

これに対しては、私のほうでは、万人に共通する回答を出すことができないと言っておきます。

それは、「幸せ」という価値観・概念・状態が、まさに人それぞれで違うからです。

極端に言えば、ある人にとっての不幸は、別の人の幸福・幸せである場合もあるわけです。

ですから、何をもって幸せとするのかの定義が一定にならない限り、タロットで幸せになるのかの質問にも答えられないことになるのです。

しかし、逆に言えば、一定の定義があれば(決まれば)、その定義条件を実現できた(満たした)場合、幸せになることもできるのだと言えます。

では、「幸せ」の定義をいくつかに分けて、その「幸せ状態」とタロットについて見てみましょう。

まず、いわゆる現世利益的なものをつかんだ、現世利益的に満足した状態、特に物質的に成功した状況「幸せ」だと仮定(定義)した時、タロットはそれを実現させることができるのでしょうか?

これは占い的なタロットの使い方をすることによって、一部可能ではないかと考えます。

ここでいう“占い的”というのは、運をつかむ、運(幸運や時流の流れ)に自分を乗せるという意味での使い方です。

タロットには「運命の輪」というカードがあるように、一言でいえば、この運命の輪に乗る、回すみたいな活用と言えましょう。

その前提として、タロットカード(の象徴性)を、運の良し悪しで見ることが重要になってきます。

先の「運命の輪」で例えれば、すべてのカードを「運命の輪」の支配に置き換えて配置する(配当させる)ような見方です。(この方法は秘伝としてはあるのですが、危険なものでもあります)

別の言い方をすれば、タロットに運の流れの性質を記憶させてしまうような感じで、運に乗れてないことをカードから検証できた場合は、運に乗せる調整を、カードそのものでしていくというようなものになります。

まあ、平たく言えば、巷のタロット占いと似たようなこと(方法・形式)なのですが、趣味や遊び感覚でするのではなく、かなり真剣に、運というものを見据え、カードと運をリンクさせる習練(実践)も必要となってくると考えられます。

いわば、現世利益・成功というものを運によってつかむのだという強い意志と信頼(信仰に近い)が大事なのです。

次に、心(精神)が満足している、癒されている、調和した気持ちになっているという状態が「幸せ」だという定義ではどうでしょうか?

精神的な満足は、物質的なものよりも心の中の目に見えないものに左右されますから、なかなか客観視することが難しいものではあります。とは言え、要は本人(の心)が納得していればいいわけなので、意外に簡単なところもあります。

この意味においての「幸せ」は、タロットでは得られやすいのではないかと思えます。

こうした心の幸せには、自分の心が望むことを知る必要があり、言ってみれば、自己の内面への洞察と調整(内在性の発見と浄化)にも関わってきます。

同時に、外的な自分の表現や行動(趣味・仕事・人間関係など生活全般)との調和(折り合い、バランス、融合)も図っていくことで、より心の満足も完成されてきます。

簡単に言えば、タロットを内面の投影や鏡として使い、今まで気づいていなかった心・内側を観察することにより、上記のこと(内面と外面との調和)を実現していく手段と言えます。

自分の心を出す(癒し、許し、素直になって表現する)ということは、ずいぶん楽になることだと、やがて気がつきます。

やってみると、どうして今までできなかったのかと思うのですが、できないようにさせていたのが、実は大人への成長、社会性の獲得とつながっていたことなので困難だったのです。

たいていの人は社会とのやむ得ない(自己欺瞞的な)調整のために、自分の心を抑圧しなくてはならず、それが積もり積もって、心的あるいは、肉体的にもつらい影響を及ぼしていたということがあるわけです。

もともと、人がどう思うのかなど全く気にならず、自分の意志を貫き通せる、自由に生きられる性格の人には、心の幸せはいつもあるようなものなので、このようなこと(内面と外面との調和作業)に必要性を感じないものですが、多くの人は大人になってから内外の葛藤が広がり、それを調整することが求められてくるのです。

結局、心の幸せを実現しなければ、生きる意味や実感も得にくいからです。

最後に、覚醒とか、霊性・魂レベルの発展(統合)を目指す(それの実現を成す)ことが「幸せ」だという(定義の)場合は、普通の感覚とはかなり違った「幸せ」観を持つことになるでしょう。

そして、マルセイユタロットは、このレベル(定義)の幸せを得るためにも開発されたのではないかと、うかがえる部分があります。

このような意味での「幸せ」は、実現が目標というより、その過程そのものが喜び(しかし苦しみでもある)となっているようにも思えます。

言ってみれば、これを目指すと志した瞬間から、「幸せ」はすでにあると例えてもいいものなのです。

しかし、一般的な意味(定義)での、ほかの幸せの意味からすれば、不幸と言ってもよい状態もあり得ます。

そもそも、「幸せ」の定義、世界観・価値観が異なれば、「幸せ」を通して互いに理解しあうことは難しいのです。

つまるところ、自分が思う「幸せ」とは何なのかということをしっかり定義しておかないと、いろいろな意見・価値観に振り回されることになります。

また「幸せ」(の定義)は、このように一定のものではありませんから、自分自身の中でも変わる事があり得るのだと思っておくことも大事です。

しかしながら、もし普遍的な「幸せ」観があるとすれば、それは真・善・美のような例えで、イデアとして把握できる「何か」元型のようなものと言え、それが多くの人に真に共有することができた時に、現実感覚としても存在してくるのではないかと考えます。

ですから、私自身は、「幸せ」は一人一人違うものではあっても、本当の意味では、誰しも同じと理解できる幸せもあるだと、高いレベルにおいては想定しています。マルセイユタロットでは、そのことが象徴として示されているように思います。

ともあれ、せっかくタロットを扱うのですから、タロットをする人は、タロットで幸せになりましょう。(笑)

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