タロットの「∞」と別時間

まず、お知らせです。

近いうちに、4月からのマルセイユタロット基礎講座の募集開始の告知をいたします。これは春と秋に行っている定期的なもので、今回春期は大阪で行います。関東圏では、東京で6月から始める予定で準備しております。本格的にマルセイユタロットを学びたい方は、どうぞ、この機会にご検討ください。

さて、このところ、ずいぶん前にタロットを教えていた生徒さんから連絡をいただくことが続いています。また、プライベートでも、本当に久しぶりの友人と再会したり、メール等でコンタクトがあったりするなどのことがありました。言わば、何かが蘇ったり、期間をおいて繰り返したりしてきていることの証です。

こういう時は、大きく変わる前触れのことがあります。そういえば、インフルエンザに今年罹患しましたが、3年前にも罹っており、その時も個人的には変動の時期で、こういうことがリンク・シンクロしていることを実感します。

そして、そのようなことを思っていますと、前にも書いたことがありますが、時間の進み方は直線(だけ)ではないこと、さらには、時間経緯に起こる事件(人生の出来事)も、単純に上重ねや直線的に増加していくようなものではないということが洞察されます。

それは、同じことの繰り返しだったり、大きなもの(スパン)と小さなものの反映だったり、二元的なものの対称性だったりするものです。

要するに、時間(それに付随する経験・記憶)は、過去・現在・未来にまっすぐ進んでいくと思っている以外の、別の「形」の時間があるということです。

その別の形とは、「円」と言ってもよいでしょう。

つまり、私たちには、時間や記憶を直接的に感じる自分と、円的に感じる自分とがいて、それがせめぎ合ったり、時々顔を覗かせたりして(特に「円」的なもののほうが)いるものと考えられます。

円的に時間を見た場合、繰り返し、対称性、繋がりという性質が見て取れます。

円のどこのポイント(点)を取っても、それと反対側の点の場所があり、それは自動的に対称性を持ちます。同時に、補完でもあります。

また、円周は点の集まりであり、中心点からコンパスで円を描くように、中心からの距離が等しい点が集合して線となりますが、ということは、それら(円周上の点)は、すべて中心点から見れば等しい関係(平等な関係)を持ちます。もし中心が自分の本質で、円周がその時々の出来事だとすれば、どれも自分にとっては等しいもの(意味)になります。

それから、円は始まりと終わりが、どこの(円周上の)点をとっても始まりであり、終わりであると言えるので、どこでも繰り返しが起きていると見ることも可能です。

私たちが、どこかで、このような円的な形として、時間と経験(記憶)を持っている(認識している)とすれば、それは直線的に見た場合の、過去・現在・未来とか、増える・減るという量的なものの概念が通じなく性質(世界)を持っていることがわかります。

マルセイユタロットでは、大アルカナの、ある何枚かのカードに「∞」の象徴図レムニスケー(ト)と呼ばれるものが描写されています。この象徴を持つカードたちは、重要な起点と終点的な意味を持ち、タロットの数の順番に従って配置しても、それがわかります。

ただ、同時に、数の順番は、「1,2,3,4,5・・・」という直線的なことを想像させるので、そのまま見れば、過去・現在・未来→と、まっすぐ進んでいく通常意識での成長、モノの増減というように映ります。

とろこが、先述した「∞」の象徴図を持つカードを、数の順番で置いた場合でも、特別な位置を占めるような並べ方ができるのです。

これはつまり、「∞」の象徴図を持つカードが、特別な位置になるような配置自体が、通常意識から離れ、円環的な時間や意識を表出するための図案になっているということなのです。

ですから、ただ単純に大アルカナを1番から21番まで直線的に並べたところで、直線的・常識的なものが表現されるだけで、タロットを現実的な観点で見てしまうことにもなるのです。

逆に言うと、私たちがなかなか普段は気づかない意識層時間の流れ(別の時間感覚)は、タロットの秘伝を受け継いだり、特殊な配置をしたり、象徴の極意に気づいたりすることなどによって、自分の前に現れることにもなります。

それ(現れるもの)は言ってしまえば、霊的な階層であり、肉体感覚と現実時空に縛られた状態では見えてこない、感じられないものなのでしょう。(しかし縛られることは、地上で人間として生きる上で大切でもあります)

普通の時間の世界では、時間経過とともに衰えや変化があります。ひとつひとつのものが変化している、動いているように見えていると言ってもいいでしょう。言わばアニメーションの世界です。

一方特殊な時間の世界は、アニメーションで言えば、ひとつひとつの絵(セル)が並行的に置かれている状態とでも言いましょうか。

その状態は、換言すれば、「永遠」「不変」に近いものです。

その不変的なものに変化を起こすには、アニメーションで言えば、意図(ストーリー)をもとに、ひとつひとつの絵を撮影し、連続して見た時です。つまり、過去・現在・未来のような設定(意図)をして、つなげた時に、ひとつの物語のようになるわけです。

現実時間の設定がストーリーや面白さを生むのは、こうした理由から当然だと思いますが、それらに囚われすぎると、真の永遠なるもの、高次の世界、イデアを把握することは難しくなるのかもしれません。

別時間を感覚(認識)化する方法は、別の自分や別の素材(状態)の世界を認識することと同意の部分もあり、おそらく古代の密儀修行体系では必須だったと感じます。

オーラやエーテル体の実感から始まる修行も、そういったところと関係しているでしょう。タロットにも、そうしたもののツールという側面があるものと考えられるのです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top