依存の中にある光

私が以前うつ病や不安神経症になり、大変だった時期は、普通より、かなり依存的になっていました。

平常な精神状態でいる時より、人・モノ・場所などに対して、つまり自分より外側のものへ頼りたがる傾向になっていたのです。

ただ、うつ病でも最初のうちは、通常のこと(仕事や作業等)ができない自分を責めることもあります。私も初期はそうでした。

しかし、次第に自分を責めるという感じから、とにかく助けてほしいこの状態から逃れたいという気持ちに変わってきました。

責める状態の時は、まだ余裕があったというか、どこかに自他(の領域・責任範囲)を分けて見ることのできる冷静さが残っていたと言えますが、うつ病だけならまだしも、不安やパニック的なものも病的に生じて、ものずごい苦痛や恐怖のようなものが実感として押し寄せるようになってきますと、まったく自分のことしか考えることができなくなり、だからこそ逆に、自分以外のものに対して、何でもいいから自分に救いをもたらしてくれることを求めるようになってしまうのだと分析できます。(あくまで自分の体験からの考察においてですが)

要するに、病的な精神状態になりますと、通常時の物事への認識のバランスを欠き、何事も極端に見てしまうようになるということです。すべてが大げさ・大ごとになってしまう(しかし、当人にとっての実感は本当にそう感じている)わけです。

このことから、人は物事に対して、自分の心次第で、その認識が変化してしまうと言えます。まさに、心(の状態)が変われば、物事の意味も変わり、深刻さ・軽さの度合いも変わるのです。

ということは、物事を、厳密な公平(中立)さ・ありのまま・素の状態で見るのは、誰においても、純粋な意味で難しいのかもしれません。

ここに、環境も大切ですが、外側のものに働きかけるよりも、自分の心・思い方を変えたほうが、全体認識の変化には効果的であることがわかります。

さて、今までの話と関連しつつも、ここからは少し内容が変わります。

外側(の何か)に極端に依存するようになってしまった時、これはまともな精神状態ではないと言えますが、人の性(さが)として、時に何かに依存してしまうような事態もあり得ます。

依存が必ずしも悪いわけではなく、依存している人を責めたり、批判したりしても根本的な解決にはならず、依存たらしめている要因・状態を探る必要もあります。

そして、やはり依存しているもの(人とかモノ)そのものが与えられても、その人が真に助かるわけではなく、依存物とは違う別の助けと、依存から脱却する境地の訪れが要請されるものです。

やはり思うのは、自分が依存的になっている時、自立の道から遠ざかっていることの警告だと思えます。

しかし、逆説的ですが、一方で、だからこそ自立というテーマが今起こっているのだと、依存(状態)を通して、その真の意味に気づくこともできるのです。

私がうつ病や不安神経症から回復したのは、休養したことや、仕事そのものを変えたことも大きいのですが、結局、いろいろなこと(それは普通の医学もあれば代替医療もあり、さらには占いやスピリチュアル、サイキックも含めた様々なこと)を治療過程でやってきて、結局、誰かや何かに治してもらおうと思っていたことの気持ちを変えた時(以降)だったからです。

つまり、依存から自立への精神の変容です。

マルセイユタロットでも、「13」という変容を如実に示すカードがあり、その次の数を持つカードは、天使姿の救済を意味する「節制」で、このふたつを並べると、向き合うような形になります。

言ってみれば、自立への変容を遂げた時に、本当の救済が訪れるという象徴とも考えられます。

しかし、だからと言って、自立を決意すれば依存は何でも脱却できるというわけでは、当然ありません。

自立精神を、すぐ立てることができれば苦労はないわけです。

苦しみながら、もがきながら、時に人やモノに依存しながら、グルグル回って私たちはやっと自立の道に進むことができます。

その過程においては、依存心を利用してだまそうという人もいれば、手を差し伸べて、きちんと援助してくれる人もいます。

注意したいのは、優しいばかりが援助とは限らず、反対に依存状態の停滞(「マルセイユタロットの「悪魔」のカードには、ひもでつなげられた人たちが描かれています)を助長するものかもしれないのです。

本当に苦しい時は、助けを求めて、一時的にでも楽になりたいと願うものです。

それでも、その苦しさと依存の状態には、心の奥底で自立を願う自分の精神があるのです。大変なのはわかりますが、すべてを依存させてしまわず(自分を捨ててしまわず)、独立・自立・真の自分の心があるのだと、心の片隅にでも願っておき、誰かや何かに助けを求めるとよいでしょう。

一言で言えば、救済は求めても、自分の本当の魂は売らないということです。自分自身への尊厳と言ってもいいでしょう。

「こんなに堕落した自分が・・・」「依存で振り回されている自分が・・・」情けないとか、「本当に苦しい、大変だ」「何でもいいから、誰でもいいから助けくれ・・・」とか、そういう状態になっている人もいらっしゃると思います。

そんな自分にも残されているかすかな、生きたい、幸せになりたい、成長したい、自分を救いたい・・・このように思う光の部分があるはずです。その一点だけでも大切にしていると、救済の天使は(あなたのその光が合図となり)訪れるでしょう。

絶望の中にも希望はあるものです。

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