タロットの中の人物構造

マルセイユタロットの大アルカナのカードには、いろいろな分類の方法と言いますか、視点の違いによる区分けが可能なところがあります。

その中のひとつとして、絵柄に出ている人たちの人数によって分けるやり方があります。

単純に図像の人物が一人か、複数かということなのですが、よく見ると、複数の人物(動物)が出る場合、たいてい、2対1、あるは3対1の構造になっていることに気がつきます。

これにはタロットが示す深い意味と意図が隠されていると考えられるのですが、それはひとまず置いておき、別の観点からこのことについて見てみます。

2対1や3対1(時には4対1)という構造は、つまるところ、複数と一人グループと別の一人(ひとつ)という形式になっているわけです。

そして、それはまた、グループになるものが、ある共通のことで結ばれている関係を意味し、それに対しての、ほかの「ひとつ」は、グループとは異なる本質があることになります。

さらによく図像を観察すると、共通のグループのものの位置と、別のひとつのものの位置も異なっていることがわかります。

位置を「あるレベル・次元」と想定すると、グループの次元と、別のひとつのものの次元は、違っている層にあると言えます。

まさに同次元と別次元の違いなのです。

さて、複数の人間が集まると、そこにはコミュニケーションや選択の問題が出ます。

人の集まりあるところ、まず間違いなく、人間同士の会話やコミュニケーション、意思疎通、情報交換が行われています。しかも、その集まりに同じような目的があったり、考え方などが同じ人間達であったりすることも多いわけです。趣味や関心が共通している人たちと言ってもよいでしょう。

その人たちが、仮に、何かの目的のために情報交換をしに集まっているとすれば、そもそも情報が必要だとして来ているので、目的や問題を解決する手段に至っていないと考えられ(至っていたとしても、常識的なものに留まっている)、言わば、皆、レベル的には似たり寄ったりのところがあると見えます。

しかし、ここで、高みからその集団を観察している者がいるとします。

その人物は集団の中に入ろうともしない様子から、集団に流れている情報には興味がない、もしくは、その程度のものは入手しているか、役に立たないと思っていると想像できます。

要するに、レベルや次元の違う人物なわけです。

この人物から見れば、下で右往左往し、必死で情報を得ようとしてる者たちは、好意的に言えば微笑ましくもあり、また悪く言えば、愚鈍にさえ見えることもあるかもしれません。

おそらく、集団の人たちの間で流れている時間・空間と、この高みの人物に流れているそれとは、質やスピードも違うものと推測されます。静寂さ(聖)と猥雑さ(俗)も異なっていることでしょう。

そうは言っても、この高みの人物(たち)のレベルにおいての情報交換もあるわけで、その時は、彼も下の集団の人たちと同じような状況にはなると思いますが、1階のホールでのものと、彼のいる2階のホールとでは、先述したように時空レベルが異なっていますから、扱われる情報とその伝わり方も違ってくると考えられます。

話を元に戻しますと、タロットの図像に描かれている複数人物(動物)のものには、こうしたレベルや次元の違いによる、コミュニケーション・情報交換(情報処理)の質の変化が示唆されているものと思えます。

マルセイユタロットには、細かく言えば3つの階層(それが都合4にもなり、部分的には8つ)が、一枚のカードの構図のもとに意味と配置が設定されています。簡単に言えば、カードのこの位置にあるものは、こういう意味合いを持つということです。

人物たちがどこに配置されているのかを分析することで、象徴の意味がもっと深くわかるようになっています。

そして、今回のテーマでいえば、複数人物のグループの位置と、もうの一人(ひとつ)の別の人物(あるいは動物やモノ)の位置関係は、そのレベルと意味が自ずと異なるように描写されているということです。

これが何を意味するかと言えば、まず否定的(ネガティブ)に言えば、私たちは同じレベルでつるみ、情報を集め、コミュニケーションしていても、堂々巡りのループを繰り返しているだけで、根本的な解決にはならないということ、肯定的に言えば、何度も(表現は違えど)同じ楽しみがやってきて、いくらでも(輪廻を設定すれば)遊ぶことができるということです。

そして、さきほどの例えで言えば、1階のホールでたくさんの人と会話している時、ふと視線を上に向けてみると、2階からこちらを静かに見ている人物と、そうした上の階があること自体に気づくことがあるわけです。(人間、「ふと・・・」になる時とは、一体どういう時かを想像すれば、面白いでしょう)

または、時々、2階以上の人物が戯れに1階に紛れ込んでおり(笑)、その本質が違うことはわかる人にだけわかるのですが、その人物とコミュニケーションが取れた時、上層階の存在に気がつく、あるいは招待されるみたいなこともあると考えられます。

それが、さきほどのロットの図像での「複数対1」の関係において、「1」なるものの視点と存在へのコンタクト、上昇と言えます。

1階の中で必死に、あるいはここが天国・自分のフィールドだと信じこんで遊び、いろいろな人やモノから情報を得ようとしたり、交流しようとしたりしても、そして、一応の目的は果たせたように見えても、しょせんは井の中の蛙ということもあるのです。

上層階への視点へは、タロット自体を詳細に観察し、その象徴性を活かすことで、自らの気づきによって道が開けますが、通常(の生活)においては、平常の中の異質性の発見や、常識・多数がよいと言っている考え方に疑いを向けるような視点、さらには外側のものではなく、自らの内側(これまでの例えでいえば、1階のホールでの目の前の人物や景色に囚われる並行視点ではなく、周囲を垂直的に観察する冷静な視点)に目を向けることで、少しずつ現れてきます。

言葉でいえば、霊性の発露、霊性復活の兆しを見ると言ってもよいでしょう。

もはや、一代限りの利己的な幸福追求をしている時代ではないと言えます。各人の霊性の回復をもっと追求し、個人から全体へと浄化と変容を果たしていくことが必要で、そうしないと、おそらく数千年も続く同じパターン・ループからは逃れることが難しくなります。

そのことが、複数対1の関係性において、タロットの一枚の中にも託されているように思います

マルセイユタロットでは、自身の霊性の回復について、タロットリーディングで展開されたカードの方向性を見ていくことで、それがわかるようにもなっています。

ただそれは、いわゆる占いでの読みではないので、使う(読む)目的により、タロットの示唆も質も変わるということです。

この(霊性回復の)ような方向性(目的)よりも、自分の中の心理的データのクリアリングやシフト、もしくは現実的・物質的変化の手段を期待する情報入手の目的では、タロットに現れている図像の解釈も異なってくるのは当然です。

その時は、複数対1の人物の読みも、むしろ同質レベルのコミュニケーションの問題としてとらえたほうがわかりやすいことになります。

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