二元統合へのアプローチ

まず予告的なお知らせをしておきます。

東京でのマルセイユタロット講座(基礎ハイクラス)を、6月から8月にかけて(土日ベースで)開講する予定です。

詳細は時期が来ましたら告知いたしますが、関東圏、東京での受講を希望している方は、この機会をご検討ください。ほかのところでマルセイユタロットを学んだ方でも、もう一度改めて学び直したい、今後、マルセイユタロットを継続して学んで行きたい(リーディング技術など学習指導してほしい)という人にも門戸を開いておりますので、お問い合せくださいませ。

なお、個人講義として日程も自由に組めるスカイプ講座もありますから、通常の講座や関西に通うことが難しい方は、スカイプでのオンライン講座もご検討いただければと思います。

さて、本日の記事です。

マルセイユタロットの教義には、大元になるものと(普遍的で抽象的なもの)、細かな個人個人に関するもの(個別的で具体的なもの)とがあります。

その大元になるもののひとつに、二元統合という概念があります。

二元とはふたつのもの、ふたつの性質、ふたつの次元と言ってもよい、要はふたつに分かれているもののことです。それをひとつに統合すること、それが二元統合の意味です。

マルセイユタロットの大アルカナを見れば、ふたつのもの・二人の人間が描かれていることが多いことに気がつきます。

もちろん、三人とか四人(3つとか4つ)の数になるものもあるのですが、例えば三人であっても、一人を中心としてみれば、ふたつのものの間にいること、四つであっても、二つずつに分けられることを思えば、二元統合と関係している趣旨を見ることができます。

人の場合、二人の人間(の統合)となるのですが、心理的には、別の自分という表現はよくされますし、皆さんにもなじみがあるのではと思います。

心理的に言う、もう一人の自分とは、シャドーや抑圧された者であったり、無意識の自分の部分であったり、また、自分を律したり、教育したり、指導したりする自分、反対に許し、癒し、優しくする自分ということもあります。

要は普段(日常)の自分と、特殊であまり自覚できない自分とがいて、それらも結局すべて自分であるので、統合すれば完成された自分(自己)として、全き人になるという考え(方)です。

これをもう少し、スピリチュアル(霊)的表現に変えれば、低次の自己と高次の自己がいて、それを統合すると完全性、神性的(仏教的には仏的)人間になるということです。あるいは、性質として見れば、女性性・男性性の統合と考えることもできます。(神的状態とは両性具有)

このような二元統合で難しいのは、普段、高次の自分、より尊い自分がわかりづらいということです。そもそもその意識に芽生えれば(覚醒すれば)、統合の苦労もないとも言えます。(苦笑)

逆に言うと、ノーマルな人間的、時には動物的ともいえる(低次の)自分はいつもそこにいるわけで、それが自分の普通状態なので、なかなか高次の自分、違う自分がいると言っても実感しえないわけです。

これは、単純な二元で分けようとすることと、あまりに統合を高尚なものや、高いレベルの愛・スピリチュアルで考えようとするから難しいのだと言えます。

何事もレベルや段階があります。

そして、二元統合へのヒントは、おそらく反対の分離した二元状態をもっと自覚することにあると考えられるので、まずは何と何が分離状態にあることかを意識する・自覚できることが最初だと思います。

言い換えれば、統合意識(目的・理想)から入るのではなく、分離状態を認める、観察することから始めるのです。つまりは現状観察です。

ただし、今までの日常的に流されてしまう通常意識では観察態勢に入れません。

観察するには、観察する観測装置か、観測環境(状態)を作る、入手する必要があります。そのためにタロットがあり(ほかのツールでももちろんOK)、瞑想とか、内省とか、孤独(一人になる)とか、日常意識状態から非日常意識状態へと移行する手続き、環境作りが求められるわけです。

そうした観測意識状態を意図的に作るということが大事です。次に、「レベルや段階がある」と先に書いたように、いきなり高いレベルの統合を思ったところで無理なものは無理です。(笑)

二元統合のもうひとつのヒントは、二元が無数に枝分かれする連続二元構造になっているのを知ることです。

どういうことかと言いますと、大元にふたつに分かれたものが、その両方でさらに二つに分かれ、その分かれたふたつが、またそれぞれでふたつに分かれていくようなものをイメージしてみれば、このことがつかめると思います。

下の階層に行けば行くほど、低レベルの二元分離状態になっており、実は低レベルなものほど、具体的なものに近づき、個性的でわかりやすい状態にあるのです。(このことを説明するのには少し長くなりますので、今はそうしたものだと思っていただければよいです)

個性的でわかりやすくなるというのは、個人レベル(自分の感じ、考えるレベル)でわかるというもので、言い方を換えれば、今の自分の世界でわかっている範囲でOKということです。

つまり、他人や本などで得る知識とか感じ方ではなく、今、自分が感じている「悪い自分」「欲望に負ける自分」「低俗な自分」「嫌な自分」と、「良い自分」「積極的な自分」「負けない自分「愛あふれる自分」「崇高な気持ちになっている自分」のままで、その分離を自覚すればよいということです。

難しく考えるのではなく、自分レベルで、何かもう一人の別の自分がいること、特に、ダメな自分を見ている自分がいることを感じ、思考することです。その日常的ではないもう一人は、厳しく機械的な自分の時もあれば、すべてを許し、見守ってくれる優しい自分のこともあるかもしれません。

いずれにしろ、何かいつもの自分とは違う別の者がいると感じているはずです。そうでなければ自己の反省も、愛情も、成長も、改革も、比較もできないでしょう。

こうやって見ていくと、低次と高次で単純に分けるのではなく、低次、つまり普通の弱く流されやすい自分の中に、それを応援し、見守り、時に厳しく叱るような自分がいることを普通に感じるもので、それは低次の中の高次なのです。

この場合の高次は、最初に分けた低次と高次と無関係ではありませんし、最初の高次と同じ性質を持つのですが、レベルや次元においては別物なのです。

言い換えれば、その高次は、あくまで通常レベルで感じる、ちょっと高い部分の私というものなので、自分自身で届きやすく、感じやすい(自覚しやすい、わかりやすい)のです。

そうしたレベルで分離した二元を意識すれば、統合の道も開きやすくなります。

とはいえ、レベルの低い段階からの統合ですから、急激に変化があったり、突如現実が変わったりするものではなく、つまりは夢のような魔法的方法ではなく、コツコツとした経過を辿るもの(方法)です。

しかし、レベルは低くとも、確実に統合への道に入るわけです。統合された分、分離状態は解消され、次のレベルの統合段階へと移行します。階段が上がるということは、下の階層は卒業しますので、文字通り、次元の異なる経験・見方を今後はしていくことになるのです。

また、二元統合の道には、見方を変えれば、自分の中の二人の統合だけではなく、自分と相手という二元とその統合もあるわけで、さらに、自分の中の二人、他人の中の二人という、これまたふたつの存在のクロスにもなっているのです。

二元統合は四元統合と関係している(二元統合は四元統合の意味でもある)ことは、タロットで象徴される四大元素を見るまでもなく、言えることです。

女性性・男性性で言えば、それぞれの異なる性を内に見るだけではなく、異性相手との間にも、自分の性と異なる相手の性、さらにはお互いの中の異性を統合していくことでもあります。

パートナー関係においても、これに精神と肉体というふたつ(二元)の統合観点も入れることで、上述した性質(女性性・男性性という二つの質)の二元統合のアプローチもまた深淵なものにしていくことができます。

あえてソウルメイトやツインソウル的な考えを入れれば、それをスムースに協力して行える関係の者同士がそれであるとも言えますし、反対にスムースにできない人であっても、二元統合の意味で、現実の関係や表現はどうあれ、対立しつつも深め合うことができる関係の者ならば、やはりソウルメイトと言えるかもしれないのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top