「正義」と「悪魔」
今日はマルセイユタロットの中で、対比的なカードになる「正義」と「悪魔」の象徴性について、少し考えてみたいと思います。
というのは、この二枚を比べることで、私達の中にある、まさに文字通りの「正義性」と「悪魔性」を見ることになるからです。
ところで、マルセイユタロットの大アルカナは、意識や心の元型を象徴する部分もありますので、いわば22枚の、皆に共通の心のパターンがあると考えることができるわけです。
だから、「悪魔」の心も「正義」の心も、やはり、誰にもあると述べることができます。
たぶん、普通の人は、自分が悪魔の心のみでできているとか、どんな時も正義の心でいられるという人はいないでしょう。それだけ人間というのは、いろいろな心を持っているのだと言えます。ですが、考えてみれば、それだけの心の種類が多いのも人間であり、つまり「自由度」が高いわけです。
余談ですが、カードの中に数を持たない「愚者」があり、このカードは何者にも染まらないか、逆に、何にでも染まることのできる自由性を持つ、私たち人間自身の心を象徴しているとも言えましょう。
さて、その中でも、とりわけ強い対比、対称性を示すのが、「正義」と「悪魔」です。面白いことに、タロットの数のうえでは、「正義」が8(ここでは、すべてマルセイユタロットを基準して書いています)であり、「悪魔」は15です。
マルセイユタロットの教義においては、大アルカナの数の順序が、そのまま人間の成長度合いを示すというものがあります。(実はそんなに単純なものではなく、これには深い見方があるのですが、ひとまず、わかりやすくするため、そう書いておきます)
すると、「悪魔」のほうが数が上なので、数として見れば、「悪魔」のほうが「正義」より優れているようなことになってきます。一般的に見て、これは理解しにくいのではないでしょうか。
確かに、「悪魔」は、そのままでは悪い者の象徴として普通に見てしまいますから、言葉としても“正義”のほうがいいに決まっています。
しかし、タロットはそうした(植え付けられた)常識や、これまで当たり前と思っている自分の観念を壊すためにも存在しています。つまり、それは破壊ですが、解放や浄化でもあり、別の意味では新たな創造にもなるのです。
少し考えてみてください。あなたの中に、正しいこと、清らかなこと、聖なること、美しいこと、向上すること・・・(清く、正しく、美しくのような文言で例えられますが)などが強く求められている時、一方で、疑いを持つこと、変わっていること、常識外のこと、醜いこと、俗なこと、堕落したこと・・・などで例えられるような気持ちが、ムクムクと起きてくることはないでしょうか。
言ってみれば、正しいことに刃向かうような反抗心のようなものであり、秩序だった世界を壊したい、無茶苦茶にしたいという破壊衝動と、それに伴う爽快感、快楽のような心です。
なるほど、ある決まったルールや秩序の世界では、それを破るもの、反抗するものは悪です。
ルールを守らないはみ出しもの、時には(法律や規則、道徳を破る者は)犯罪者と言ってよい場合もあります。ですから、ある規則で守られた社会・世界側から見れば、それを壊す者は「悪魔」となります。逆に言えば、きちんとルールを守って暮らしている人、特にルール遵守に優れている人、そのルールの番人たちは「正義感」あふれる人となるでしょう。
しかし、このルールで守られた社会が、必ずしもよい世界とは限りません。
その規則・秩序も、行きすぎたものになったり、ただ一部の人が大勢の人々の自由を奪うために作られ、守られているものだったりすれば、それはまさに支配であり、抑圧となります。こうなると、一見「正義」のようでいて、支配する「悪魔」だと見ることも可能です。
私たちは社会人になっていくにつれ、もともと持っていた自由なエネルギーと心を社会に適合するよう矯正され、結局のところ、次第にそれを失っていきます。
一部のクリエイティブな人、常識外になっても自分自身を保っている人は、例外として、それを持ち続けることができますが、たいていの人は、自らの牙(角)は折り、または隠し、従僕な羊(角は丸めます)として過ごしていくことになります。それは皆が快適で安全な社会生活を営むためには必要なことでもありますが、一方で、情熱や熱狂、すばらしい創造性と独立性、さらに自由性を失っていくことにもなります。
「悪魔」は、こうした私達の中にかつてあったものを象徴しているのです。一方で、私たちの常識的世界では、「正義」の名のもとに懐柔され、創造的で情熱的なエネルギーは、別のものに消費されます。
こうしてみると、マルセイユタロットの「悪魔」の絵柄の、まさに悪魔の人物のところに、「正義」の裁判官のような人をすりかえて置くと、その状態がよくわかります。
けれども、これは「正義」の中の「悪魔」性として見た場合の話で、「正義」も「悪魔」になりうること、「悪魔」のエネルギーがよくも悪くもなく、それをどう扱うの問題で考えた時の話です。
さらに「悪魔」と「正義」について見る時、それぞれにおいて高次と低次のものがあると考えるとよいでしょう。
つまり「悪魔」の中にも高次と低次の「悪魔」があり、「正義」の中にも同様に、高次と低次の「正義」があるのです。
高次の「悪魔」性においては、実は私たちを束縛(決まった社会、平凡で常識的なつまらない世界)から解放する、自由で独立的なエネルギーが流れます。しかし低次においては、私たちを誘惑し、堕落させ、自己中心にさせ、ただ肉体的・物質的快楽を中心とした世界に埋没させるようになります。
他方、「正義」においては、高次ではどんな時にでも、中庸でバランスを取り、何かに囚われる(傾く)ことなく、厳格に自他ともに律し、秩序を保ち、平等的観点で物事を見ることが可能になります。しかし低次においては、自分の信ずる(自己保身の)ルールこそがすべてになり、他者、あるいは自分に対して批判的になり、ルールからはずれものは排除し、非難をするようになります。この(低次正義の)時、「正義」の裁判官は、「悪魔」の中心人物に取って変わられているのです。
「悪魔」に誘惑されている時、「正義」の剣は、それを断ち切ることができ、逆に、がんじがらめのような「正義」の規則に苦しめられている時、「悪魔」の混沌や愉悦は、私たちを楽にさせます。
人は、自分の湧き起こる心をコントロールすることができません。感情や気持ちは瞬間的、自動的に生じるからです。しかし、起こった感情・気持ちの影響自体をコントロールすることは可能です。
ただ、コントロールのきっかけや術(すべ)を持つことが難しいわけです。
マルセイユタロットの場合、人の心(とその影響)パターンを示しますから、いわば、カードの絵そのものが、影響をコントロールする「切り札」のようなものなのです。
例えば、先述したように、「悪魔」に侵されそうな気持ちの時は、「正義」のカードをイメージすると、自分をまともに保ち易いですし、もっとラフになりたい時は、「悪魔」のカードを思い浮かべると、気持ちが楽になってくるという具合です。
単に絵をイメージすることだったら、ほかのものでもOKでは?と思うでしょうが、マルセイユタロットには、その絵柄(構図と色)自体に秘密があり、イメージすることは、普通に考えられている以上に効果があります。そこが単なる象徴カードというものと、マルセイユタロットとの大きな違いと言えます。
ともかく、皆さんの中にある「悪魔」と「正義」、それらを比較しながら、魂の解放の方向性を見つけられればと願うものです。
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