タロットからの「待つ」象徴
人間、活動的・活発的な時ばかりではありません。
静かである時、待機している時、控えめにしている時なども必ずあります。
まさに静と動が循環しながら、その時その時で、私たちの生に現れているのだと言えます。
ところでタロットはあらゆる面で、象徴図として活用することができますが、やはりこの静と動の対比においても、象徴性の違いを見ることができます。
今回は、特に「静」に着目し、静的な象徴のタロット(大アルカナ)を取り上げ、中でも「静的態度」においても特徴的な、「待つ」ということにフォーカスにして、見ていきたいと思います。
さて、「待つ」ということを示しているタロットカード(マルセイユタロットの大アルカナ)には、どんなものがあげられるでしょうか。
明らかに静的なカードといえば、2の「斎王」、9の「隠者」、12の「吊るし」、18の「月」と言ったところでしょうか。
やや静的な感じとすれば、17の「星」なども入るかもしれませんし、そもそも人物が活発ではない、動いていない(座っている)ものも静的だと見れば、3「女帝」、5「法皇」、8「正義」なども考えられますし(「皇帝」も玉座に座ってはいますが、半立ちで行動的です)、立っている者でも、あまり動いていない者ならば、15「悪魔」もそうかもしれません。
また、ほかは動いていても、自らは静止しているような状態だとすれば、10「運命の輪」の、輪の上の動物(スフィンクス)とか、「力」とか「戦車」のような動的なものでも、御者(コントロールしている方)を見れば静かかもしれません。
実はタロットは、陰陽的な統合も示しているので、どのカードにおいても、静と動の両方は考えられるのです。(このことはとても重要ではありますが、今回はテーマではないので省きます)
このように、静的なカードというものも、いかようにでも見ることは可能なのですが、今回は、「待つ」こと、「待機する」ことの象徴性に絞って、あえて恣意的に、数枚取り上げさせていただきます。
それらは、具体的には、「斎王」「隠者」「恋人」「運命の輪」「吊るし」「悪魔」「月」です。
ちょっと「静」とは言えないようなカードも入っていますが、これらは、どれも「待つ」ことを意味する(そういう意味を含む)カードたちです。そして、その待ち方に違いがあるのです。
「斎王」は、受け入れによって蓄積していく(貯まっていく)ことを待ち、「隠者」は、極めていく過程で指導してくれる者、または反対に指導を受ける者を待ち、「恋人」は迷いの中で、気づき・インスピレーションが起きるのを待ち、「運命の輪」は、ひとつのサイクル(周期)が終わるを待ち、「吊るし」は動きを停止して、観察しながら状況推移を待ち、「悪魔」は誘惑した行方(欲望の火の燃え方)を待ち、「月」は本能や自然(天体の動きを含む)のリズムを待ちます。
この中でも、「斎王」と「隠者」、「運命の輪」と「月」、「恋人」と「悪魔」、「吊るし」と「月」、「恋人」と「運命の輪」、「斎王」と「吊るし」など、ある種のペアによって似ている待ち方があることもわかります。
それから、「内的な待ち」と「外的な待ち」があることも見えてきます。
「内的な待ち」というのは、自分の心や状態、内側を中心(基準)とした待ちであり、例えば心が落ち着くまでとか、心が満たされるまでとか、情熱が起きてくるまでとか、疲れが取れて来るまで(肉体・精神両方ありますが、いずれも客観ではなく、自分が実感するという基準が主です)とか、自分の感じ方を中心とする待ち・待機です。
一方の「外的な待ち」とは、環境とか組織とか他人とか、自分を取り囲む外側のものの状況・サイクルが整うまで、変化するまで待つというようなものです。
言ってみれば、どちらも「機が熟すまで待つ」ということなのですが、それには、内側と外側の「ふたつの熟し方」があるわけです。これを一枚のカードであえて示せば、「運命の輪」のタイミングとなります。
ただし、スピリチュアル的に考えれば、内と外は同一、見方の違いでしかないので、結局、内の待機も、外の待機も、同調していると見ることができます。(物事には終わっていくタイミングと、満ちて始まるタイミングなどがあり、それが内外で一致していくことも意味します)
さきほど、一枚で示せば、「待ち」も、つまるところ「運命の輪」のタイミングとして表せると述べたように、ほかの待ちのカードも、「運命の輪」と重ね合わせることで、待つ要素の性質や種類を分けることが可能になります。
それは「斎王」として待つのか、「月」としての待ちなのか、「恋人」としての待ちなのか・・・という具合です。ここに数と四大元素の違いを明確に持つ小アルカナも稼働させれば、具体的な待ちのタイミング期間や時期についても予想することができます。
とかく、今の時代、意図的・人間的(他人の作った)情報があふれ、その刺激によって、自らの静的な状態、待ちの姿勢が崩されることが多くなっています。
電池にも充電が必要なように、そして物事にはタイミングがあるように、待機したり、待ったりして自分自身を確かなものにしておく保持期間が必要とされるのです。そういう意味では、「吊るし」で象徴されるよな「籠もる」ことも、かえってよいことにもなります。
「静」は「聖」と言葉でもつながるところがあり、普段の俗的な中での動きによって消耗し、低俗になり過ぎた自分に対して、静は、神聖さを取り戻す、神や高次のものとつながる、俗とは区別された時間や場所を意味します。
静的なカードや待ちの象徴のカードが出た時、そのことを意識するとよいでしょう。
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