幸せは、自分が幸せになることでしかない。
スピリチュアル系、あるいは心理系の話で、自分が幸せになること、イコール、世界の平和、他者の調和にもつながるというものがあります。
簡単に言ってしまえば、何より自分が幸せになること、自己の幸福感が第一だということになります。
ところで、仏教用語に「天上天下唯我独尊」という言葉があります。これを、ある悟り的な境地を示すとするか、戒め風な解釈と取るかについては、出典はともかくとして、人それぞれだと思います。
なぜ、この言葉を出したのかと言いますと、さきほどの、自分の幸せが第一ということの意味について、まさにこの言葉と関係すると言いますか、その解釈の違いで似たことになるからなのです。
もし、「天上天下唯我独尊」が、天上・天下(天地あらゆる世界)において、私という存在はただ一人であるという意味だとして、その一人というのが、個性やオリジナリティを象徴するのか、はたまた、すべての人は私であり、あなたであり、ただひとつの存在でしかないのが本質だとするのか、さらには、ワールドイズマイン、世界は私であり、私は世界なので、私を中心にすべてが回っているから我に従えというような、傲慢な態度、自己陶酔の極致を示すのかによって、まったく解釈が変わってくることになります。
同様に、自分の幸せが第一という意味も、別の解釈をしていくと、
1.自分が幸せになることで、すべてが幸せに見えてくる
※裏返しで、自分かせ不幸だから、他者も不幸に見える、不幸な出来事にフォーカスされる
2.自分の幸せが一番だから、他者は私が幸せになるよう貢献・奉仕すべき
3.自分はすごい幸せな人なので、自分についてくればあなたも幸せになれる
4.世界・宇宙は自分というか、ただひとつなので、自分の幸せは、ほかの幸せとならざるを得ない
5.自分の幸せは他者から与えられるものではなく、自分自身によるもの
などが考えられます。
おそらく、どれが正しいとか間違いなどはないと思います。例えば、アンケートをしてみて、一番多いものが正しいのかといえば、そうではないでしょう。
結局、自分が一番しっくりするものが、あなたの答えとなるわけです。
ただ、このように列挙すると、パターンは見えてくると思います。
1と4は本質的には似ています。自分の思い込みで悟りもどきというか、自己洗脳みたいにするレベルか、もっと高いレベルで「一」なるものを実感するかによる違いと言え、どちらにしても自他一体感の中に幸せの波動の同調性を生み出している感じがします。しかし、一歩間違えれば、先述したように、洗脳や陶酔、熱狂を生み出しかねない姿勢です。
2と3はタロットで言えば、「悪魔」のカードのようなもので、自己存在(エゴ)を強固に拡大、肥大させたもので、自分の独特の世界を作り、自分の幸福感に他者を巻き込ませるような形です。ただ、巻き込まれている人も、一種の幸せ感を味わっており、見ようによっては、関わっている人、皆幸せであると言えます。(つまり、本当の世界の幸せではなく、中心人物が作りだした世界観においての世界(幻想・内部世界)での幸せを共有している状態)
そして、5は心理的な見方・要因で考えたものと言えます。力(タロットの「力」とも関係)の扱いや自他の責任といったことにも関連します。
他人や外の環境・状態から幸せが与えられると思っている人は、幸せの拠り所が外側なので、いつまで経っても外の状況に自分の幸せ感が左右されるという、根本的な幸せ感の心理的所在問題について言及しているものです。
結局、自分が幸せを選択すること、他人や外の状況にかかわらず、自分自身が幸せだと思う状態になればよいわけで、それは自分の側に選択権や力のコントロールレバーがある状態です。ということは、自分の幸福・幸せが第一だと言い換えてもよくなります。
しかし、1から5のどれをとっても、自分の幸せが第一というのも、強く思いすぎると、バランス的におかしくなるおそれは秘めています。簡単に言えば、低次のわがままを生み出しかねないということです。
それでも、究極的なことを言えば、幸せとは、現実に生きている限り、自分が感じるものです。たとえ他者が幸せであることを第一だとしても、それは、「他者が幸せであることが自分の幸せ」(と自らが感じること)なのですから、つまるところ、自分の感覚によるわけです。
すると、万人が幸せになるという(客観的な)ことは、現実的にはあり得ないことがわかります。なぜなら、幸せとは先述したように、個人的な思い・感覚の中にあるものだからです。どんなに環境を整えても、誰か一人はそれを幸せだと思わない人が必ずいるはずです。
ですから、言い換えれば、幸せは主観でしかなく、その(幸せの)存在は一人一人の内にあるのです。
そこで、さらに考えてほしいことがあります。
例えば、世界でも人気の「ナルト」という忍者漫画・アニメでは、最終戦争みたいな時に、地上の全員が幻想の幸せ感・イメージの世界に取り込まれるという敵の忍術が出ました。それは一人一人、幸せ・幸福だと思えるエピソード・ストーリーに閉じこめられるというものです。ですから一人一人、幸福のストーリーは違うわけですが、それでもその術がさめない(解けない)限り、一人一人は確実に幸せを味わっているのです。
主人公たちは、これは空しい仮の幸せだと嫌い、正しい元の世界を取り戻そうとしますが、その状態は果たして完全に不幸、悪だと言えるのでしょうか? 確かに他者から与えられているので、先述した5の理由としては、間違っている幸せですが、それでも、偽・仮想ではあっても、それぞれ本人が感じている意味では本物の幸せなのですから、あながち、間違っているとも言い難いです。
「マトリックス」という映画でも、卵状のカプセルに一生閉じこめられ、エネルギーを奪われる代わりに、幻想の世界で喜怒哀楽、悲喜こもごもを味わえる仮想現実世界に、人類が取り込まれていたことが描かれました。
もしその仮想世界で、一人一人、幸せになる物語を経験できることになっていたら、それは万人に共通の幸せ王国、天国になっているかもしれません。その他、映画やアニメなどでは、バーチャルな世界での幸せと、現実での幸せについて描き、幸せの定義を投げかけている作品は多くあります。
話はそれましたが、このように自分の幸せというものを見つめていくと、いろいろなことに気がついてきますし、時には、わけがわからなくなることもあります。
究極的に自己が幸せと感じるもの、判断することが、どんな幸せの種類であろうと左右しているのであれば、自分が幸せになることが第一という考えは、間違ってはいないことになります。いや、それどころか、それしかない(自分が幸せになることしか、幸せになる方法はない)と言ってもいいかもしれません。
と同時に、他者・外部という存在があるからこそ、不幸を感じることもでき、幸せというものは、不幸という反対の定義で二元一対になっていると見れば、自他の違いが不幸と幸せを感じさせていることになります。
これは別の見方をすれば、不幸と幸せは同じものと、一見不可解な結論にも導かれます。
あとは、皆さんにおいても、考えてみてください。
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