救済のエネルギー

昨日、大阪で大きな地震がありました。

私も関西在住ですので、揺れはなかなかのものでしたが、阪神大震災を経験しているので、どこか冷静に揺れを感じている部分もありました。とはいえ、同時にかつてを思い出すこともあり、それなりに恐怖でした。幸い、当方の周辺は大丈夫でしたが、高槻を中心に、北摂、大阪北部地方は被害も大きく、被災された方々、お亡くなりになった方々にはお見舞いとお悔やみを申し上げます。

それにしても、今回の地震でも、出勤時間帯であったにも関わらず、混乱はありましたが、人々の落ち着いた対応や助け合い精神なども見られ、昨今、日本や日本人の衰退ぶりが強調されることも少なくありませんでしたが、このような危機的状況になると、どこかでスイッチが入るのか、まだまだ捨てたものではないという、日本人、いや人としての強い魂のようなものを感じさせます。

また併せて、「思い」と「救い」は何らかの形でリンクしており、思い方次第で、救いの状況も変化するのではないかと、タロットの「節制」や「13」のカードを見ながら考えます。

以前にも書いておりますが、私はうつ病と不安神経症で、かなり苦しい時期がありました。あまりのつらさ、苦しさに、何度も死ぬことを考えましたが、自殺してもその苦しみから逃れられるどころか、ずっと固定されてしまうのではないかという、妙な精神世界系の知識も入っていたため、この苦しみが永遠につづくことこそ真の恐怖であると思い、死ぬことさえもできず、まさに、生きるも地獄、死ぬも地獄の状態にいました。

どうしようもない状況の中で、それでも救いを求めて、さまよっていました。この時は、まだタロットは知らなかったのですが、絶望でありながらも、救いもどこかにあるのでは・・・という、不思議な思いがわずかながらもあったのを覚えています。

マルセイユタロットを学んだあとに、大アルカナの象徴を見てみますと、「13」というカードの次に14の「節制」(救済の天使の象徴)が来ており、苦しい状況でも救いがあること、「地獄に仏」がある(いる)こと、もがき苦しんでも、あきらめずに、いつかは何らかの救いがあることを知りました。

ただ、その救いは、必ずしも、(苦しみ、困っている)当人の欲するタイミングや方法で現れるとは限らないのかもしれません。

それは、マルセイユタロットでは、14の「節制」から、さらなる数の積み重ねで登場する、「悪魔」「神の家」「星」の流れで象徴されているようにも思います。

特に「神の家」ではそれが顕著で、突発的に起こる出来事であるそれは、なるほど、衝撃的であるだけに、当人の思うジャストタイミングではなかったり、望んだ形ではなかったりするとしても、文字通り「神」目線においては、やはり、ベストなものであり、天からの救いが入ったのだとみることもできます。

人間レベル、常識や通常レベルでは、なかなか自分に起きていること、自分が経験していることの真の意味はわかりづらいものではあります。しかし、どんなものにも意味があり、苦しさの中にあっても、救いはセットになっているのだと思うと、少しは生きるのが楽になったり、違った視点で人生をとらえなおすことができたりするのかもしれません。

言ってみれば、地上観点と天上観点の接点を見つけることであり、その統合によって、私たちは生きていると実感もできますし、生かされていると客観・達観もできるのだと思います。

地上でできることと、天上から差配する(される)ことは、違いが大きいとは思いますが、私たちは天上人(神や天使)ではないので、地上でできることを努力し、自我の欲望ばかりに動かされず、自分を救うと同時に、他者も救えるのなら救うという思いで、行動していくと、天上の差配も変わってくるのではないかと想像します。

それは、私たちは天上の人では確かにないですが、一方て、天上的な性質もどこか内に有していると考えられるからです。象徴的に言うならば、私たちは悪魔でありつつも、天使でも神でもあるのです。

同じ性質は共鳴し合いますから、私たちが、より天上的性質を復活させ、自らを貢献させようと地上(地上人)で表現していく時、それは天にも影響を及ぼし、逆に天から地への働きかけも大きくなってくるのではないかと思います。

それでも、最初は悪魔的・エゴ的な自分(だけ)が助かりたい、幸せになりたいという思いがあってもいいかと思います。というより、そういう性質が人の中には埋め込まれており、どうしてもその影響から、エゴ的になってしまうのは仕方ない面があるものと考えられるわけです。

この思い(自分だけ助かりたい、幸せになりたいというような思い)は、とても身勝手なものと誰しも思うでしょうが、見方を変えてみると、そもそも助かりたい、救われたいという思いが、自分だけでも、まずはないと、何も始まらないわけです。

物事はすべて対であり、セットです。救いがあるのは、救われたい、救われる対象があって初めて成立することです。

ですから、まずは救われたいという思いが、たとえ自分だけの範囲でも起こることで、救済のエネルギーが生じるわけで、エゴの思いも、最終的には高次につながっているものと考えられるのです。

しかし、やがで自分だけが救われても、結局は意味がないことに気がつきます。

究極的な意味では、自分が救われることはもっとも重要(世界は自己が創造しているという立場では)であるという説もあるでしょうが、他人がいてこそ、世界は(あなたという個性が他者の存在によって認識される)世界として存在しますから、他者への救済も自己の救済とセットになってくるのです。

ともかく、あきらめたり、自暴自棄になったりせず、悪魔もいれは天使もいる世界(それは悪魔そのもの、天使そのものではなく、実際の地上人、地上の現象として、その性格でもって顕現することを指します)なのですから、救いを純粋に求めていくことが、救済を顕現させる大事なひとつの要素となるのです。

先述したように、その救いのタイミングや方法は、あなたの望んだ形ではないかもしれませんが、天の目線からは確かに救済なのです。

もうダメだ、終わりだと思えばそれまでですし、人は悩み、苦しい状態の時は、なかなか別の観点を持ったり、自ら救えるとは思えたりしないものです。

それでも、救済を思い、希望を持って生きていくことで、救いの縁が少しずつ働き、つながり、天を動かし、意外な形とタイミングで、救われることがあります。その時、あなたは、すでに、過去の救いを求めたあの時から、救われていた、救済が始まっていたことに気がつくでしょう。

すると、天(あるいは自身の神性、天使性)に感謝の気持ちも起きてきますし、自分だけではなく、他者にも救いの手があること、救いの手を差し伸べたい気持ちも現れてきます。

ただ、いつまでも多くの人が、悪魔性や身勝手なエゴにとらわれる情勢が続く時、その影響や転換のための災厄も逆に言うとあるかもしれません。自分だけが救われたいという思いは、裏を返せば、ほかの人はどうなってもいいという思いになってきますので、結局、一人一人、それぞれ自分以外が滅ぶ災厄を望むようなイメージでもって固まってくるのて、全体としての大きな災厄となって現れる危険性があるわけです。

それでも、大きな危機が訪れ、絶望的な気持ちにはなっても、反転すると、それは巨大で高度な救済措置が現れる可能性でもあります。それはタナトスからエロース、死から生への逆転でもあり、私たちがさらに成長し、よりよい社会にしていくための試練だとも言えるのです。

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