教え。最初の人と、それを受け継ぐ人

何かの技術や知識を身につけるのには、先生や師と呼ばれる人に教わるか、独学で学ぶかということになります。

しかし、最初は独学でやっていても、本格的に習得したいとなれば、普通は、やはり教室や学校などに通うか、伝手を頼って、その専門家など、教えられる人を紹介してもらうかでしょう。

ただ最近では、オンラインでの学びも多くあり、将来的には、AIとか、人ではないものが教師になることもありそうです。

そうした人間ではないものの先生は別として、ある技術を教える人(先生・教師・師と言われる人)は、まじめといいますか、その技術に熱心に打ち込んできた人や、努力型みたいな人のイメージがあります。

反対に、その技術で現役の人や、スーパーな実践力を持つ人は、先生というより、天才型の偉人みたいな感じで、日常の生活、行動ぶりも、時に奇行的なエピソードなどがありそうです。それでも、そういう人は、その分野で特段の優れた技術を持ちますので、周囲の人が放っておかず、乞われて教えることもします。

まあ、言ってみれば、教える人にも、努力型や秀才型みたいな人と、まさに天才型、才能型の人がいるというわけです。

またその教え方も、きっちり系統立てて、あるいは論理立てて、基礎からじっくり積みあげさせていくタイプと、行き当たりばったり、自分の感性や直感に任せて教えていくタイプの人がいます。

もちろん、両方を兼ね備えた人もいるでしょうが、結構、どの分野にしろ、タイプ的にはどちらかに分けられる気がします。

そして、ここが不思議と言えば不思議で(よく考えると当然のことですが)、意外に実態なのが、最初の開祖の人、その技術を世に知らしめた人、それを創作した人は、概して天才型であるということです。(ただし、その技術を高めるためにはすごい努力をするので、努力型のところもありますが)

創作(創造)するということは、アイデアの力、想像力と創造力が必要であり、それは、従来の決まりきったパターンや思考・習慣・規則の中にいては、思いつかない類のものです。

言ってみれば、既成概念を打ち破る、革命的・破壊的なものを持っていないと、新しいものは生まれにくいわけです。何かの創造者(発明者)に、奇人変人が多いのもこうした理由からだと思います。

従って、初代・宗家・世にそれを生み出した人は、天才的で破天荒なイメージの人が多いのだと推測されます。

しかし、その思いついた技術や知識がいくらすごいものであっても、それを受け継ぐ人がいないと、一般には広がりません。そして、それが人々を救ったり、豊かにしてくれたりするものであれば、なおさら、多くの人に理解と習得ができなくてはなりません。

ほかの人にもわかりやすくするため、シンプルさも求めれるかもしれませんし、テキストやテンプレート・型のような、普遍的に伝えられるもの(手段)が必要な場合もあるでしょう。

そこで、二代目とか、継承する弟子筋の人などが、改善し、そうした普遍化を図っていくことになるわけです。

しかし、ここで初代の創造者のものとは、必ず違う置き換えや変換が起こってきます。

それは、専門的で直感的とも言えた初代のもの(産物)に対して、今度は、多くの人に習得してもらうためには、一般的で論理的になる(言語化される)必要があるのと、学んだ側の人にとっては、師その人とは個人としての人間が違いますから、それぞれ別の世界観によって受け継がれるからです。

また、教えるために組織化されていくと、様々な維持のための現実的なしがらみやルール、お金のこともからんでくるようになります。

さらには多くの人が集まると、人間の感情的な部分も出てきますし、何より、それぞれの正義(どれが正しい、どれが正当なものなのか)というような争いも現れてくるようになります。

こうして、教えられる内容は、その意思や形も変えながら、様々な流派も生み出し、時に争い、時に協力しあいながら、次代に伝わっていきます。(消滅していくものもあります)

すると、本当のところは、どの先生に教えてもらったところで、真には伝わらないものであり、結局、初代・オリジナルから、人を介した分だけ、変わってきているところがあるわけで、最初の創造者がこの世にはいなくなっていると、もうどうしようもないということになります。ましてや、文書や言葉だけで伝えられているものには、かなり、最初のものからかけ離れているところも、特に精神的にはありそうです。

それでも、「魂を伝える」「その心は伝える」みたいな言い方が、特に日本ではされるように、形がたとえ変わってはいても、目に見えないデータ・教え・エッセンスというものが、受け継がれていく何かがあるのかもしれません。

これは民俗学でも「ムラの精神」などと言われ、時代が変わっても、その地域に連綿として受け継がれている何か、ムラ(村)全体の意思のようなものかあると考えられていました。

技術継承においても、霊統とか、縁による出会いとか言わるように、形だけではない、目に見えない重要な働きがあると言えそうです。

話を戻しますが、初代(創造者)からそれを受け継ぐ側の者に回る人は、それはそれで役割があり、社会に伝わりやすいように調整したり、パターン化したり、テキストを作成したりしていくわけで、そうした人は、むしろ天才型よりも、努力型とか秀才型の人のほうが向いているでしょう。

そして、受け継がれていく中でも、中だるみや、あまりにパターン化してしまって、その最初の精神性・創造性ともいうべき力が衰えた時中興の祖のような、これまた天才型の人物が現れ、初代を彷彿させるかのように、それまでのものを使いながらも、斬新な改変・創造も行われ、まるで新しい技術が生まれたかのように、フレッシュさを伴って出てくることがあります。これも、そうした人でないと、再興できないという、役割的なものだと見ることができます。

ですから、私たちも、誰かに何かを教わったとしても、もともとの性格とか気質と、その時々の役割などが相まって、それをぶち壊すかのように、オリジナル風にしてしまう人もいれば、その技術をきちんとまじめに、次の世代や多くの人に伝えていくという役割で、コツコツ取り組む人もいると考えれば、自分のタイプに応じて、今度、自らが先生や師となる時に、立ち位置や取るべき方法などが、客観的にわかります。

スポーツの分野では顕著ですが、現役時代の天才プレーヤーが、必ずしも名コーチ・名指導者にはならず、逆に普通の選手とか、特に現役の時に有名だったり、世界で活躍したりする人でないほうが、教えるのがうまいこともあります。

それは天才や直感型の人は、自分がなぜそれができてしまうのか、どういう具合でそれをやっているのか、人に説明できないからです。説明できなければ、教わるほうも難しいのは当然です。

ということで、天才型の人は、ちょっとだけ教えてもらったとしても、先生を言うことを聞かなかったり、あっという間に師を超えたりして、独自の道を歩むことがあるわけです。むしろ、最初から独学で、誰にも教わらないほうがうまく行く場合もあるかもしれません。

さて今回は、教え・教わることをテーマに、創造者タイプと、それを継承していくタイプとの違いや役割を見たわけですが、今度は、先生や師をもったほうがいいのか、あるいはたくさんの先生を同時にもったほうがいいのか、または独学でもよいのかなど、特にタロットを学ぶことを中心に見ていきたいと思います

続きは次の記事で。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top