先生・師を持つか、持たないか。
前回の続きの記事ですが、厳密には同じテーマではありません。
前回は、いわゆる創始者とか発明者の立場・タイプと、それを受け継ぎ、一般に広める立場の人たちとの間では、発想も行動もタイプも違ってくるので、教え・教えられる関係性においても、そのことが考慮されるという話でした。
今日は、学び・教えの中で、先生や師のような人を持ったほうがいいのか、あるいは独学で学んで行ったり、技術を身につけて行ったりするのがいいのかということを、特にタロットの学習においてということで、取り上げたいと思います。
まず、ここにも、前回のテーマで語ったタイプ的な違い、立場的な違いによって言えることがあります。
従来のタロットや、すでに一般に売られていたり、流布したりしているタロットではなく、自分で創作するタロットを使って活動したいという人は、当たり前ですが、自分がオリジナルになるので、そもそも誰も学ぶ人がいません。いきなり自分が創始者・創造者になるわけで、つまりは最初から生徒ではなく、先生になる運命です。(笑)
ですが、こういう人でも、タロットのタの字も知らない段階では、創作しようにも、タロットカードというシステム(タロットカードという概念そのもの)の発想が知識としてもありませんので、タロットに接する機会は必要てす。言ってみれば、タロットは何か、どんなものかを知る機会です。
それが、ある先生から(知る)という場合もあれば、書籍やネットから知るということもあるでしょう。しかし、このようなタイプの人は、一時的に先生はいても、あくまで自分の発想のための刺激やきっかけに過ぎず、師という感じは持ちにくいでしょう。
従って、創造者タイプの人には先生や師は必要ないと言っても過言ではないですし、下手に自分の主義主張を押し付ける先生に当たれば、むしろ自分の良さを打ち消される弊害さえあるかもしれず、基本、独学の立場でよいのではないかと考えられます。
一方、これは言うまでもないことでしょうが、最初からきちんと順を踏んで教わりたい、その道(すでにあるタロット)の専門家に詳しく教えてもらいたいという人は、やはり、先生・師を持ったほうが学びやすいでしょう。
また、独学でやってきたものの、壁に当たってなかなか越えられなかったり、やればやるほど混沌としてきたりした人も、初心に戻り、基礎から専門の人に学び直すのも手です。
結局、自分だけではわからないところがあるから、壁にもなっているわけで、質問・疑問に答えてもらい、客観的目線で指導してもらえる人が必要となってきます。
次に、タロットの使う目的による観点です。
タロットを趣味や手軽な遊び的目的で使うだけなら、別に先生もいらないでしょう。カルチャーセンター程度の先生から学んでもいいですが、特に師事するとか、本格的に先生ついて教わっていくというのも、目的が異なりますから、先生を持つのはお金と時間の無駄になることもあります。
逆に、タロットを象徴ツールとして、深く学んでいきたい、自分や他者にタロットリーディングなどを行い、問題解決や人生のサポートをしたいという目的の場合は、やはり先生・師を持って学んだほうがいいかと思います。
また、タロットを通じて霊的成長を求める人、西洋魔法的な道に入る人は、最初は人間の師匠を持って、次には自分の高次の(人の次元とは異なる)師匠が現れると言います。
ただ、場合によっては、占い師で実践活動・営業活動したいという人は、必ずしも、タロットの先生を持つことがいいとは限りません。それは当てる才能や直感性が、教えられる類のものではないからです。(トレーニング方法はありますが)
これはカードとともに、自分の直感性・才能を磨いたほうがよく、それは人から教えられるより、自分のやり方のほうが合っていることもあるのです。
そして何よりも、基本がわかれば、実践をどんどんしていく中で、占い師としての蓄積と成果を上げて行くことで、自分の独自性・ウリが確立されるようになります。
先生の二番煎じとか、マネでは、その世界では売れないわけで、つまりは、強烈な個性、オリジナリティが求められ、それは前の記事のテーマでいう、「創始者・創造者」タイプに近くなってくるのです。
だから、先生に学んだとしても、こういう場での活躍を期待する人は、早く先生から離れたほうがいいこともあるのです。
しかしながら、カウンセリング的な方法で、特に心理分野にフォーカスしてタロットを使って相談する場合は、占い世界とはまた別になってきますので、こちらはカウンセラーへのスーパーバイザーが必要なように、先生から指導してもらえる環境があったほうが、自分を中立に見たり、また相談者として成長していくことの指針を与えてもらったりできます。
それから、将来的にタロットを教えたいという目的を持つ場合、これもいろいろと意見はあるとは思いますが、個人的には、先生・師がいたほうがいいと思っています。
その最大の理由は、先生としてのモデルがあるからということです。最悪、自分の学んだ先生に問題があったとしても、反面教師という言葉があるように、自分が教える立場になった時には、それを改善してよくすることもできます。
教えること、伝えることというのは、前にも書いたことがありますが、マルセイユタロットで言えば、「法皇」にあたるもので、タロットを読むのが「斎王」だとすれば、それぞれのカードが違うように、そのふたつには技術的にも精神的にも違いがあるのです。
いくら自分がタロットリーダーとしてよく読めるとか、実践経験を踏んできたと言っても、教える側、伝える側に回った時は、また別種のものが必要なことを痛感します。
そういう時、先生から教わってきたことを思い出し、先生はあのように教えていた、あのように指導していたと、モデリングすることによって、自分の教える道・方法を自ら作っていけるようになります。また先生によっては、教えることを教えてもらえる場合もあります。
アニメや実写化もされた競技かるたの漫画のシーンで、師匠のいない天才的な競技者を見て、ある先生が「師を持たない者は、誰の師にもなれない」とつぶやくものがあったのですが、先生・師のいない人、モデルのない人とは、まさにこれだと言えましょう。
天才型の人は、前の記事でも述べたように、独自のものを創設する力に満ちていますが、反面、それを伝えていくというのは苦手なところもありますし、破滅型として、無茶や特殊なことをやって終わってしまうこともあります。
しかし、こういう人においても、師があれば(いれば)、それなりにモデルや伝え方の方法がわかり、何とか、次代の人に継続して行ってもらえる可能性や、すばらしい弟子たちを作り上げる期待もでき、さらには、師から戒めとか愛を送られて、破滅から救われることもあるでしょう。
それから、先生が複数いるのがいいのか、一人の人のほうがいいのかですが、これもどちらがいいかは、一概には言えないと思います。
タロットにおいて考えると、知識(技術の知識も含む)を入れることをメインにすると、複数の先生でもいいと言いますか、そうなることが多いかと思います。
例えば、マルセイユタロットを知識的に探究したい、あらゆることを知りたいとなれば、Aさんというマルセイユタロットの講師から学び、Bというマルセイユタロットを教えている学校の先生から学び・・・ということも考えられます。
一人の先生だけではどうしても視野やパターンが同じになりますし、先生それぞれが独自の研究もされていて、発見や解釈もまた異なるものがあり、生徒としての立場からすれば、いろいろな方から学ぶことがで、知識として、より広くしていくことができます。
けれども、逆に言えば、統一的、段階的に学ぶことができず、バラバラな感じで散漫な状態にもなる危険性があり、知識はついたものの、実際には使えないとか、本質的には何もわかっていない状態となることもあります。
また先生によっては、他所で学ぶことを嫌がる人もいます。(それは感情的・ビジネス的なことで言っている人もいますが、論理的に統一性が取れないとを危惧している場合もあるでしょう)
その道の専門家で、しっかりとした先生であれば、その人のもとだけで学んでいても、十分なものは得られると思います。むしろ、混乱せずに済んで、ぶれなく学べ、よいこともあります。
ただ、あまりに先生・師を尊重し過ぎて、もはや崇拝の状態、心酔しきってしまうようでは、「悪魔」のカードでたとえられるような、依存や囚われの身と言えますから、それは危険でもあります。
「先生のおっしゃることはすべて正しい」「先生の言うことは絶対服従」「先生の指示・命令は必ず聞かなくてはならない」・・・みたいな状態です。
「そんなことには私はならない」と思っていても、意外に気が付かないまま、尊敬が崇拝になっていることがあるので、時に冷静に自分を振り返ってみることです。
先生から嫌われたくない(普通の感情以上に思う場合)、先生のグループから排除されるのは怖い・・・という感情が出てきている時は、すでに崇拝や依存の世界に入っていると見てください。(これは心理的には、先生を親やパートナーとして扱っている構造が隠されていることがあります、しかし段階的には、必ずしもそれも悪いわけではありません)
反対に、先生側がやたらと、これをしろ、あれをしろとか命令・強制してきたり、特に金銭的なものやセクシャル的なものを要求してくるような場合は、注意する必要があり、離れたほうがよいでしょう。
一言でいえば、先生・師に愛があるか、であり、支配や強制ではなく、成長や自由のためを思って生徒さんに接しているかになります。しかし、盲目の愛や、甘い言葉、慰め、耳によい言葉(だけ)ではなく、愛にも表裏の表現方法があり、自分にとって時には痛いことや、厳しさで表されることもあるのです。
そこに愛があるかは、受ける側の神性・魂なら判断できることで、間違いやすいのは、感情・心で判断し、結局、心地よいか悪いかで愛を見てしまうことに曲解のおそれがあります。
まあ、先生も人間ですので、感情もあれば、論理もあり、いい面・悪い面は必ずあるものです。そいうバランス性を大切にして、見ておくことでしょう。
それはともかく、普通はやはり、先生や師がいたほうがよく、反対に、早くから独立心があり、オリジナリティが問われる競争フィールドで活躍したいという人は、独学もよい場合があるということです。
マルセイユタロットの絵柄と象徴性で見ても、人の成長のルートとして、「法皇」や「隠者」が待ち構えていますので、先生・師を持つことの意味は、大きなものがあると考えられるのです。
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