その学びは、実際に効果があるのか?

タロットもそうですが、世の中には、いろいろな講座・セミナーがあり、知識や技術を学ぶことが、その気にさえなれば、容易にできる時代となっています。

昔は、師匠・先生・学校を探すのも大変で、書籍類にしても、図書館に行ったり、本屋を尋ね歩いたり、とにかく学ぶ前段階の、自力での探索努力が必要でした。

学ぶのも簡単になれば、教える人が出るのも簡単で、ますます学びの門戸は楽で多く開かれているようになったと言えます。

その分、いわゆるライトな学びも増えてはきましたが、基本、底上げというか、学びのしやすい環境は、全体の向上にもつながるよいところはあると思います。

しかしながら、深い学びになると、やはり、いくら縁あって、よい師や学校に恵まれたとしても、結局のところ、自分次第と言え、最初は指導を受けながらでも、最終的には自分のものにするためには、どの分野においても、まさに自分の哲学のようなものを構築し、完成していかなければならないと思います。

そして、それは唯一無二のものとなり、あなたの個性に応じた、ひとつの(学びの)完成の形となるのです。

ところで、学びにおいて、よく言われるのは、それが使えるのか(実際に効果があるのか)どうかという点です。

あるセミナーに出ていたところ、その講師の方は、「いくらここでわかった気になっても(“気づいた”と言っても)、実際に学んだことが活かされ、自分や生活が変わらなければ、それは学んだ(真に理解した)ことにはならない」とおっしゃっていました。

確かに、多くの人は、学びが単に知的好奇心を満足するためだけに終わり、最初はワクワクして学んでいても、講座とか学びの期間が終れば元に戻り、何事もなかったかのように、これまで同様の平常運転の自分と生活になってしまうことは結構あると思います。

セッションや相談においても、その時はとてもよかった、癒された、感動したとなっても、しばらく経つと、セッション時の感動はどこかに消え、これもまた特に変化のない日々に戻ることがあります。

では、何かが変わらなくては、本当に、その学びは効果がないと言えるのか? 受けた価値はないものなのか?と言えば、必ずしもそうではないと考えます。

自分の生活が、いい意味で激変するかのような教え(学び)はなかなかないのが普通ですし、たとえ、そういうものに出会えたとしても、自分(受ける側)にとっての相性というものもあります。

講師の伝える内容や方法ではなく、それを自分がどう受け取り、実践するのかのほうが、最終的には、自分の現実に効果を及ぼすかどうかが決定されると言えましょう。(講師からの強烈な洗脳などの場合は別ですが)

ただ、学びが現実に活かせない問題としては、与える側と受け取る側の双方にあると言えます。

まず、与える側の問題として、それが、文字通り、現実的な内容ではないということがあります。もっと言えば、具体策がないことであり、話は面白く、わかるにしても、どうすればよいのか?という具体案が抽象的であるわけです。

しかし、受け取る側としても、そもそも学ぶ内容が、あり方的や方向性を示すもので、具体的方法を講義するものではないと理解していれば(そのように教える側も伝えているのなら)、問題は起きないわけで、この場合は、受け取る側の想定違いということが考えられます。

これと同様に、あくまで知識を入れるためとして、現実や自分を今すぐ変えるための方法を仕入れに来たわけではないと思っていれば(つまり知的好奇心を満たすのが目的と割り切っていれば)、どの講座・セミナーにおいても、受ける側には有意義な時間となります。(とはいえ、知的好奇心を満たさないレベルの内容だと、そうではなくなりますが)

それから、教える側、与える側は、本気で変わってもらいたいと思って、いろいろと具体策まで講じているのに、受け取る側、学が側が本気ではなく、依存的な態度で、「変えてもらう」「学べば自動的に変わる」みたいな(受動的な)思いと態度でいれば、やはり効果が現実には起こりにくいのは必然と言えます。

自分と向き合おうとせず、知識ばかりを入れようとして、結局、その場しのぎで終わる人もあり、それはセミナーをたくさん受けたり、同じ技術の次のステップの講座を受けたりしても、堂々巡りを繰り返しているだけになります。

さらに、目的と学ぶ内容が、そもそもずれている人もいます。

集客したいのに、人を癒す技術を学んでばかりいても、非効率といえますし、健康になりたいのに、お金の知識とか投資のことを学んでいても、それは目的が違うことになります。(健康になるには、お金で健康を買う必要があると考えている人は、それでよいのですが)

また、私自身が思うのは、物質的観点から離れた、学びの効果も考えるとよいということです。

なんだかんだ言っても、学びの実際的効果といえば、現実や自分が変わることではありますが、その変わる内容が、結局、物質的観点によるモノや人の多寡(多いか少ないか)によること、あるいは精神的なことでも、結局、一般常識的な幸せ価値観による幸福感に満たされることなので、それもモノのあるなしに左右されていることが結構あるわけです。

平たく言えば、お金持ちになるとか、余裕のある生活ができるとか、コツコツ働かなくて済むとか、好きなことをして暮らせるとか、まあ、そんな手合いの内容です。

それは現実的に皆が望むのは、人として当然なところがありますし、何も悪くはないと思いますが、一方では、人はモノだけではなく、心や精神、霊性・スピリチュアリティの部分を持つ存在です。

現実的には、生活は何も変わっていないように見えても、学びによって、目に見えない領域には何かが蓄えられたり、今まで開いていなかった扉が開き始めたり、どうしてもとこだわっていたものがなくなってきたりと、内的な変化が起こっていることがあります。

もしかすると、その変化の詳細は、自分が亡くなってからでないと真にはわからないのかもしれませんが、それでも、ひとつひとつ、確実に、見えないところで変化が起こっていると考えられます。

それ(見えない領域での変化や成長)に気づいていくこと自体が本当の目的として、色々な現実における学習・学びをしているのかもしれないのです。(もちろん、実際での目的のために学んでいるのですが、その裏にある魂の目的のようなものもあるということです)

そして、ひとつ(の学び)が終わったからと言って、現実が急に変わるという見方をするのではなく、少しずつ蓄積されたものが、いつか花開くという観点になれば、どの学びも過程になり、やがてそれがリミットに達した時、満杯になった時にあふれ出して、本当の(実際の)効果として現れることもあるはずです。

自我意識としては、地上(現実)の幸福を求めて各種の学びを自己の意思、自分の選択で行っていると思っていますが、もう一方では、天・高次・神性・魂的な意味での幸福を求めて、その観点によっての(学びの)選択が、天上的示唆によって行われている(つまりは天の配剤のようなもの)とも考えられます。

天上的選択による学びでは、地上の幸福を表させないこともありえると思います。

このことは、マルセイユタロットでは、「恋人」と「神の家」で示されることでもあります。

ということで、言いたいこのひとつは、地上目線だけで、「実際に効果のない学びをしても仕方ない」「学んでも、現実が変わらなければ意味がない」と断じても、それは、あくまで地上的見方に過ぎず、違う(天の)観点では、大きな変化になっていることもあるのだという話です。

ただ、現実・地上目線では、確かに、効果のあるなし、効率・非効率はありますので、私たちが人間であるならば、その点も無視できないのは確かです。

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