タロットを何の書物とするか。
タロットというものをどうとらえるかによって、実は、この世の中に対して、厭世的な見方になるか、楽天的なものになるかも決まってくるかもしれません。
そして、タロットを使うことが、安全か危険かという観点にしても、タロットへの考え方によると思われます。
ここからは、ちょっといつもより、スピリチュアルな話になりますので、あまり、この手の話に共鳴できない人は、今日は読まないほうがいいでしょう。
さて、皆さんは、この地上世界、言ってみれば地球の生活・(現実)世界は、どのように感じられているでしょうか?
とても楽しかったり、美しかったり、生きていることがすばらしいと思える人もあれば、つらく、苦しいことばかりの世の中だと感じている人もいるでしょう。
本人はまあまあだなと思っていても、世界全体を見回せば、戦争や争い、犯罪や残酷なことも少なくない世の中です。また、いろいろな意味で不公平や矛盾にも満ちているように見えます。
あるいは、世間の人は普通によい暮らしをしている(幸せな)人が多いのに、自分は不幸だ、厳しい人生にいると思っている人もいるかもしれません。
ここで、結局、自分の感じ方次第といえばそれまでで、もし、すべて自分が見ているものは、自分の(作り出した)幻想だとすると、外側の世界は自己の投影像みたいなもので、世界が悲しいところと感じるのは、自分がそう決めているからだと考えることもできます。
では、自分が幸せで満足、平和な状態になれば、実際の外の世界もそうなるのかというと、これは究極的な問いであり、難しい問題です。
なぜなら、誰も、他人の本当の気持ちや、その人の見ている世界がわからないからで、誰か(の内)が平和になったから、世界が平和になったという検証は、ほかの人からは、できないわけです。
その誰か、他人でさえ、自分の生み出したものであるかもしれないのならば、つまるところ、すべては自分に帰結することになります。
で、この「自分が世界(自分が創造しているのが世界)」ということは、ひとまず置いておき、私たちが、誰もが共通して見ている実在する現実世界があると仮定します。
すると、やはり、自分だけではない多くの他人にいる社会や世界があり、それがすばらしいと見えるか、あまりそうとは思えないと見えるかの違いは、人によって出で来ると思います。
最初に述べた、厭世的か楽天的かということでいえば、この現実の世界から逃れたいと思うか、この世界を楽しみたいと思うかの違いのようなものです。
そこで、(マルセイユ)タロットです。
実は、タロットは、この世界から逃れるための書物と取る立場と、この世界を充実して生きるため(あるいは遊ぶため)の指針とする立場と、大きくわけて、ふたつの考え方(とらえ方)があるように思います。
スピリチュアルな考えの人には、「私はなになに星(系)から来た」みたいな、魂の宇宙人説を唱える人がいます。
そして、たとえそれであっても、ふたつの立場があり、この地球を楽しむ(遊ぶ)ために来たという人と、地球を修行の場と見てあえて鍛えるために来た、または何らかの要因で、地球に落とされた(いわば刑務所のようなところに囚われた)という人がいます。(地球の人を救いに来たという人もいますが)
要するに、ここでも楽天的に地球旅行をしに来たというような見方と、苦しい修行や何か浄化・服務のために来たという厭世的・悲観的な立場があるわけです。
何にしても、楽天的にとらえたほうが、何事も楽しいのは間違いありませんが、どうしても楽天的になれない人もいるような気がします。
メンタルを鍛えたり、浄化したり、あるいは強く洗脳されたりすれば、楽天性が出るのかもしれませんが、現実を直視すればするほど、そう楽天的になれない部分もあるのではないでしょうか。
「どうせなら楽しんしゃえ!」と能天気になれる場合は別としても、現実的に、ここ(地球・現実)にいるのは仕方ないのだから、それこそ、この環境で、やれること、できることに注力して、少しでも自分の生活と、できれば周囲の世界をよくしていくのがいいというのが常識的だと思います。
そのためにタロットを使うという立場があってもいいでしょうし、もしタロットを使わなければならないとすれば、実際(現実・地上生活)をよくしていくためのものとして使うのが、普通になるのも当然といえます。
それは端的にいえば、占い的な使い方と言ってもいいかもしれません。
これは、現実の自分、地球にいる自分を地上に適応させて行こうという方向性でもあるので、当然地上(地球)と結びつき、いわば安定を求めるものなので、地球生活的には安全な使い方と言えます。(ただメンタル・精神の世界で見た場合、もし占いを依存的に使用する場合は、安全とはいえませんが)
一方、「この世界は本来、自分のいるべき世界ではない」という違和感があり、「この地球の現実は厳しすぎる、悲惨なことが多く、レベルが低すぎる」という見方をする人は、タロットを現実・地球からの脱出という神秘啓蒙書のような目で見ます。
しかし、そのような人でも、実際には肉体をもって、地球・地上生活をしなくてはならないので、そことのギャップ、葛藤に常に苛まされます。
人によっては、肉体的な問題(病など)が出たり、精神的にバランスを崩したりする人もいるかもしれません。
なかなか現実・地上との折り合いがつかず、そのために、現実逃避になったり、上記のような肉体・精神のバランスを取るのが難しくなったりするわけです。
この意味で、タロットを地上(地球)脱出の書として扱うことは、常識的に見て、危険でもあるわけです。
しかし、タロットはさすがに、ただの啓蒙書ではないところがあり、いきなりの脱出を示唆せず、順を追っての脱獄(笑)を示しているように思います。
そのひとつは、大アルカナと小アルカナに分かれていること、大アルカナでも、地上生活を示唆する絵柄が半分はあることなどからわかります。
すべては、一元から二元の分離と還元ととらえれば、星や天に帰りたいと思っている人でも、悪いことばかりではなく、地上・地球に来た、よい意味が何かあるはずです。
そして、一足飛びに帰るのではなく、たとえ、ほかの楽天的な、地球観光を楽しんでいるような人にはなれなくても、段階を追って、地上生活に何とか順応(妥協)しながら、脱出していく方法があるのだと考えられます。
あまりに物質・地上的ものを忌避していると、お金や肉体の問題に悩まされ、そこ(地上・肉体)からすぐに抜けられないのですから、苦しい状態を現実に生み出します。ボディ・フィジカル部分も、ないがしろにはできないということです。
それでも、本当の故郷や目指すべきところへ帰還するためには、やがて物質や肉体を超えていく必要があると考えられます。地上的・地球波動になじみすぎると、目的を忘れ、麻薬摂取したような、酩酊と欺瞞な状態に浸かることになるでしょう。
郷(地球)に入りては郷(地球)に従えの気持ちや実践をしながら、奥底では、帰還の志をいつも持ち、忘れないというのが、脱出のためには重要ではないかと考えます。
現実的には、自分が他の星の生まれ(魂を持つ)とか、この世界が本当の世界ではないと思う、というような考えは、言わば、中二病みたいな(苦笑)もので、一般的にはバカらしいものですが、しかし、この考えでもって、救われる心があるのも事実だと思います。
あなたの感じている、地球・地上生活での違和感は、本物かもしれないということです。
中にはもう、この星(地球)の生活にはうんざりだと思っている人もいるかもしれません。(ちなみに輪廻転生説を入れると、地球に輪廻転生することは、一時的退避ではあっても、真の脱出はしていないことにもなります)
常識や多くの人が感じたり、思ったりすることが、正解とは限らないのです。
けれども、やはりこの世界に存在しているわけなので、まったくの現実逃避をしていては始まりません。囚われているのなら、解放や脱出の手段を講じていく必要があります。
マルセイユタロットは、もしかすると、そうした者たちへの脱出指南書かもしれないのです。(ということは、脱出した存在から、もたらされたものの可能性があります)
さらに言うと、マルセイユタロットに出会う縁も、脱出の機縁と関係があり、この世界の牢獄性に心が気づいている(魂が覚醒しはじめた)からかもしれません。
とはいえ、それは、あくまで、タロットをこの世界からの脱出や、あるべきところに帰還するためという話に共鳴できるタイプの人です。
普通は、占いやリーディングに興味をもって学ぶとか、自己変革でも、そういうスピリチュアルな脱出の話ではなく、心理的・現実的に自分を見つめて、変化・変容させたいというものになるでしょう。それはそれでいいのです。
まあ、どれであっても、マルセイユタロットはそれ相応の力と効力を発揮してくれるところが、また面白く、すごいところです。
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