悩みは独りよがりの中にある。
この前、自分のやっているタロットやカード技術とは違う方法(私のマルセイユタロット)で見てもらうための企画の募集をしましたが、先日、それを受けていただいた方がいらっしゃっいました。
その方は、タロットやカードが好きなことが雰囲気からも伝わってきましたし、その中のひとつとして、マルセイユタロットをされていたのも、私自身としては、とてもうれしく感じました。(それだけ、私はマルセイユタロットが好きなのです(笑))
それで、その方の展開法や技術とは異なる、私からのリーディングと説明をさせてもらったのですが、結局、本質的にはご本人がされたものと、私の展開してリーディングしたものとは、同じことが出ていたわけなのです。(同じカードもポイントとして、シンクロ的に出ていました)
そして何よりも、すべては、リーディングするまでもなく、ご本人がもともとわかっていたことだったのでした。
今日の書きたいことは、ここになります。
つまり、私たちは誰もが、本当はどうすればよいか、悩みながらも、実はわかっているということです。
しかし、占い師でもスピリチュアルリーダーでも、タロットリーダーでも、はたまた普通のお仕事をされている方でも、意外に、自分のことはわからないとおっしゃる方が少なくないです。(私もそういうところがあります)
ここが人間としての悩みであり、苦しみであり、しかも、現実世界として存在するあり方(そういうルールみたいなものになっているところ)とも言えます。
マルセイユタロットの教義に限らず、スピリチュアルな方面、あるいは宗教的な面でも、人は神や仏と同じ完全性を持つ存在、またはそれになることができる(悟ることができる、回帰することができる)と謳われています。
ですから、どんな困難な事態に陥っても、解決の方向性、よい方法、改善策などは知っているはずなのです。
人によっては、それが、何となくのレベルから、何度もそう思ってきたという確信に近いレベルまで様々です。
それでも、やっばり人は迷ってしまう、わからない、悩んでしまうというのは、神性(完全性)とかけ離れた自分、端的に言えば、自我の強さと、社会的・常識的観点で見た自分の判断を正しいと思う傾向があるからだと考えられます。
すごくシンプルに言えば、それは独りよがりのことなのです。
自分の思考あるいは感情によって、さも分析装置にかけたり、直感センスを利用したりしているように見えても、不安や恐れ、外から見た自分や、他者の観念が強くダウンロードされて操られた状態になっていては、それは独りよがりの輪の中で、グルグル回っているだけに過ぎなくなってしまいます。
ここから脱出するには、元の神性とつながる自分に戻ればいいのですが、今の時代、まず神聖な時間と場所がほとんどなく、多忙な毎日とデジタル的な膨大な思考(外側からのいいか悪いかで判断する分析)的情報の洪水にあり、ほとんどの人は、翻弄されて、環境的に、元の自分には戻りにくくなっています。
元の(神性的・魂的部分とつながっている)自分なのか、誰かの思想の(誰かのための犠牲的)自分なのか、善悪、利害で見ている自分なのか、わけがわからなくなるのです。
人間界は、私が思うに、本来の自己、神性的な自己とはつながりにくい環境をあえて作り出しているようにも見えます。
かつては、それでも、聖域や、聖域を守り、神に奉仕して、神性的なエネルギーと波動を自らに有していた巫女的・神官的な人々がおり、生活の場所においても、神棚や仏壇、近くには鎮守の神社、お寺、屋敷には屋敷神、井戸の神、台所の神など、身近にも神域を感じさせる場所がありましたし、静かなる時間も今よりは多かったでしょう。
それを失った今、現代の環境と人々が、迷いの空間(本来の自分の声を純粋に聞くことのできない時空間)に閉じ込められているかのようになって、特に精神的・霊的に淀んだり、停滞したりするのは当然かと思います。
さきほど、独りよがりになるシステム・環境が問題だと言いました。
人間界には、救済のシステムも働いていると考えられ、その中のひとつで、かなり強力なのが、意外や意外、人間同士の交流によるものなのです。
もちろん、人間と修羅の世界が近接しているような環境では、人との交流によってかえって傷ついたり、被害に遭ったりすることもあります。
反面、人が人を助けることのできる世界でもあるのです。
前に、自分は自分でしか救うことができないと書いたことがありますが、究極的にはそうなのですが、それに至るための前提で、他人からの救済、手を指し伸ばしてくれる経験によって、自らが救われたという思いが出て、自分で自分を救うという感覚が芽生える過程があります。
要するに、他人目線だからこそ、冷静に、しかしその人のためという愛をもっての視線で、手助けが他人からできるのです。そう、独りよがりに陥っている人の堂々巡りの輪に、脱出するための手を差し伸べることができます。
人は、自分でわかっていても、本当にそうなのか、わかってはいるけれども、どうやればいいのかわからないということが、悩みにはあります。
その解決には、他人からのアドバイス(他人視線)によって、「やっぱり自分の思っていたことは正しかった(というより、自分本来の声だったのだ)」とわかりますし、方向性が自分ではわかっていても、そのやり方がわからない人には、やり方を教えてくれる人(その道の専門家とか得意な人とか)いるわけです。
例えば、自分のしたい活動があるけれとも、それをしていいのかわからない。それでも、それをするのが好きという自分がいるし、やっていて楽しい、何となくそれをすればうまくいくこともあるのではないかという感じもする、一方で、常識的・社会的に見れば、困難さの思いが出たり、自信も出てこない自分がいる、という状態だとします。
そこで他人に(タロットなどで)見てもらうと、やっていいという気持ちの許可ができていなかったり、経済的なこと、社会的な目線で活動を見てしまったりする自分が改めて認識されたりします。
しかし、したいことはすればいいとも出ます。つまりは、そのままの自分の思いが出るのです。そして、カードをさらに精査していくと、自分本来の思いが自分を成長させたり、抑圧から解放してく過程になっていることを知ります。(エゴでわがままなものとの区別もつきます)
社会や現実とすり合わせる意味では(たとえば好きなことを仕事にするなどのことでは)、方向性さえ決まれば、あとは自分自身を阻害したり、抑圧たりしないようなやり方を見つければ(現実の世界で人から教えてもらえば)いいのです。
結局、神性なる自分はすべてを知っていますが(つまり神としての自分が計画していることがある)、それを後押しするのも、現実的との調整と適応をさせていくのも、人なのだということです。(人間世界での実際の表現については、多くは現実の人間が手助けすること)
本当はわかっているのに、独りよがりに陥って悩んでいる人は、タロットセッションで解きほぐして(他人という観点でもって転換させることで)、本来の自分に戻る手助けをさせてもらいたいと思います。
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