焦り、そして危機という変容に対して。

本来スピーディーな印象のカードや、逆にゆっくりすることが求められるカードが、警告として出てくる場合、その多くは、焦りすぎ、急ぎすぎという内容て解釈するとよい場合があります。

たとえば、前者では「戦車」のカード、後者では「節制」などが、あげられるでしょうか。

カードの読み方の技法はいろいろとありますが、単純なものには、吉凶、いい・悪いに分けて読むもの、そしていいも悪いもカード自体にはないものの、そのポジションの出方(正逆など)や、直感的な印象によって、カードの表すノーマルな状態に、アンバランスな力やエネルギーが働いている(自分がそうしている)と読む方法もあります。

最初に述べた、警告的な見方は、カードそのものにいい・悪いを見るのではなく、カードの象徴性のノーマルさが崩れたものとして、自分の問題をとらえるやり方です。

さて、今回の趣旨は、カードの読み方の技法をとりあげるのではなく、人の焦りについてのことです。

なぜ、人は焦ってしまうのかと言えば、予測がつかないことが起こった、今までの経験やデータではわからないことが起きている、早く結果を出さないといけない差し迫った状況にある・・・など様々ですが、逆に言えば、落ち着けない、安心できないからで、一言でいえば、「自分を見失っている」からだと言い換えることができるでしょう。

焦らないためには、どんなことが起こっても、大方の予想ができる自分の経験値や能力を高めておくことがまず考えられます。これは状況に対応できる力を養うという意味で、物質的というか、現実的な対策と言えましょう。

しかし、いくら経験や能力を高めても、わからないことはあり、突発的に焦ってしまうことはあるでしょう。そうすると、今度は、メンタル・精神を鍛えたり、何が起きても動じない精神の状態をキープできたりする、内面や心のほうからの対処も考えられます。

極端なことを言えば、悟った人になれば、おそらく焦るなんてことはないのでしょう。ここまで来ると、もはやメンタル次元を超えたところに自分がいて、いわば、すべてがわかるような状態になっているので、焦ることはないのだと思います。

ということは、「大悟する(大きく真に悟る)」というのと同じですが、そこまで行かないにしても、精神的・メンタル的には、具体について悩むのではなく、もっと次元を上げたところに問題を置くと、今悩んで焦っていることのレベルが消え、焦りそのものが消失するということもありえます。

例えば、「これを明日までにやらなくてはならないが、時間がない」と焦っている時に、その作業を明日まで仕上げられるかどうかという時間的作業的問題(具体的問題)に対して、焦っているわけです。

その問題観点(次元)を別にしてしまうと、まず、明日までという制限は絶対なのか?伸ばすことは可能ではないのか? 明日までというのはもともと無理ある話だったのではないか? というような、小さな次元移行でもって考察することができます。

さらに大きな次元移行になりますと、そもそもこの作業をやらなくても生きていけるのではないか? できないと非難や損害は被るかもれないが、自分自身の本質は何も傷つかないのではないか?みたいな話にもなってきます。

もちろん、社会でのルール、責任というものもありますので、なんでも次元や大元を変えればよいというわけではなく、当然、自分が超越した状態に移行するには、その分の責任も取る覚悟、本当の自由を選択するそれ相応の責任も生じます。

さて、焦りについて、ちょっと違う話もしたいと思います。

人はずっと同じ状態が続くわけではないのは、皆さんも気づいておられると思います。肉体的にもそうですし、スピリチュアル的にも、(魂の)成長のために、いろいろな事件や変化が自分に起きてきます。

見方を変えれば、(高次の)自分が起こしていると言ってもいいのですが、このような時、たいていはピンチや危機、試練のようなものとして本人には感じられます。要は大変だと実際に感じることなのです。(こじつければ、大きな変化なのて「大変」とも言えます)

大きな意味(魂的な目)で見れば、それは成長や今までの殻を破るための変容ステップだと言えるのですが、当人には何が起きているのかよくわからず、肉体的・環境的など、いろいろな実際の試練・苦しさなどとして経験します。

予測のつかないこと、わからないことは焦りの原因でもあることは、先述した通りです。

そのため、自分でいろいろ調べたり、誰かに相談したり、見てもらったりと、いろいろと駆けずり回る人もいます。

試練は、ただその人にその状態で放置されているだけのものではなく、タロット的に言えば、救いの天使(現実ではあなたを援助する人ということになります)のサポートや、気づきを与えるインスピレーションが与えられやすい状況になっていったりと、何らかの「神性」からの手助けがセットで施されています。

よく言われるように、当人に越えられない試練はないみたいなことです。(援助とセットになっている)

ところが、人間である私たちは、これまで経験したことのないようなこと、理由がわからないようなこと、まったくの混乱状態に陥ったりしている時などは、どうしても焦ってしまい、ただでさえ、物事の見方が偏っているのに、もっと狭い偏見に近いほどのモノの見方になり、思考や感情を冷静に保っていられず、いわゆるパニックのような状態になることがあります。

普段は隠れていた自分の弱さが、拡大されて出てくるようなものです。

この状態では正確な判断ができにくいことは、普通に考えてもわかることです。まさに、自分を見失っている状態なのです。

焦りでもっとも危険なのは、こうした正常で冷静な判断力が失われ、別の人に依存的であったり、攻撃的であったりする、自分の影の人格のような自分が憑依することです。(それが現れてしまうこと)

この場合、象徴的な言い方になりますが、天使より先に悪魔が入り込みやすくなり、ますます焦りが増幅され、誰かに極端に依存したり、ひとつの答えしか見えなくなったりして、それでしか自分は救われないと意固地になります。

さきほど、試練は救済とセットになっていると述べたように、象徴的には天使も見守っているのですが、天使的な守護を得るためには、自分(の中にあると言ってもいい、天、神性、宇宙など大いなるもの)を本当の意味で信頼し、辛抱強くあることが必要です。

そして、自分の判断やエゴ的(欲求解消、快を求めたり、苦をすぐになくすためが中心の)感覚だけに頼らず、現実的でまともに相談できる家族や専門家の意見も求めることです。もっというと、奇跡(奇異というものに近い奇跡)やとんでもを求めすぎないということです。

そうすると、直感ではなく直観として、あなたの中に安心できるコアのようなものが見つかっていくでしょう。

苦しいことはとてもわかりますし、すぐさま何とかそこから助けてほしいという気持ちになるのはもっともですが、それだけに、あなたの焦りによって、変容を遅らせたり、ますます泥沼にはまらせる存在を引き寄せてしまうこともあるのです。

ですが、もうひとつ、私の経験から言いますと、迷いに迷って、焦りに焦って、いわば迷い焦り切ってしまうことも、必ずしも悪いばかりではないと思います。

助けを求めて、いろいろなところへ出かけたり、人に会ったりしていくことで、結局、何をやっても誰によっても、自分自身が本当のことに気が付いていなければ、自分は変わらないのだと、やがて何か、憑き物が落ちたかのようにわかる時がやってきます。

それに気が付き始めた頃に出会う人や、仕事、技術は、(当人への救いとして)本物であることが多いような気がします。

しかし、これは諸刃の剣で、あなたが弱り、焦りのエネルギーを食らおうとする(それは肉体的エネルギーのこともあれば、あなたのお金の場合のこともあります)存在もいますので、危険といえば危険なところもあります。

どんなに落ち込んでも、必ず救いはどこかにあるのだと信じる(自分の中に持っておく)ことで、救いの道は、時間差はあっても訪れます。

この現実世界は、時空を感じられる空間のため、時間差や空間的距離などの差があり、それが直接ですぐの救済がもたらされにくい要因ともなっています。

自暴自棄になって、自分など生きる価値がないと思ってしまうことも、人によってはあるでしょう。私にもそんな時はあります。

それでも、試練と救いはセットになっており、時間差や距離感はあっても、救いと成長のシステムがあるのだということを信じる(つまりは自分の中にその物語をセッティングする)ことで、道は開かれると思います。

宗教的に神に祈るという行為も、祈るという行為そのものが、救済の装置(仕掛け)をあなたの内面にセッティングしているのです。本気で祈りを繰り返すことで、自身の神性的な力も発動することでしょう。ですから、祈りも無駄ではないのです。

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