人は悩むことを使命としている(されている)
私たちは悩むことが仕事である、もっと言えば使命であると述べれば、怒る人もいらっしゃるかもしれませんし、何を言っているのかわからないと思う人もおられるでしょう。
それでも、ちょっと通常の観点を変えて、人間の生活を見れば、そのようなことも、あるいは言えるのかもしれないと、気づくこともあるのではないでしょうか?
あくまで想像にはなりますが、きっと原始的な共同社会では、今ほどの悩みはなかったように思います。
社会システムが複雑になればなるほど、様々な具体性や種類のものが登場し、扱う物事の数も複雑さも前時代の比ではなくなってきます。
それだけ、毎日、思い考えなければならないことが莫大に増えているのが現代社会の人々と言えます。
便利な道具も増えたにもかかわらず、世の中が複雑になり、むしろ助け合いや協力的なことは、実感として希薄な感じであり、人の温かさにふれるということもあまりなくなってきました。
昔は、助け合わなければ(民俗学でいうユイやモヤイ的な共同作業をしなければ)生活ができなかった時代であったからということはあるでしょう。
しかしながら、今は、別の意味での協力はあっても、所属するコミュニティ・社会全員で協力的に仕事を行わなければ、個々の生活ができないという状況ではありませんので、人に無関心にもなりますし、個人の勝手や自己責任という考え方が増えていくのも当然かと思います。
皮肉なことに、所属成員の生活がかかっていたために、共同的にならずにはいられなかった時代は、そのおかげで、成員全体での援助やケア、時には相談や癒しもあったのだと推測されます。
生存的な(食べていくことの)悩みは今よりもっと深刻にあったでしょうが、精神的な混迷とか、生きづらさの悩みは少なかったように想像します。
そうして、時代が進むつにつれて、生存的な悩みは改善されてきましたが、先述したように、社会やシステムが複雑になり、機器も発達し、人口自体多く、価値観も多様になってきたことで、情報は洪水化し、あらゆる選択肢は増えたものの、反面、どれを選択し、どれが正しいのかが余計わかりづらくなっています。
要するに、(時代の)進化に従って、精神的な悩みがより複雑化してきたということです。単純に、時代が進めば人類も進化するとは言い難いとは思いますが、一般的に言って、文明は発達してきたと考えてもよいでしょう。(超古代など、まだ科学・歴史的に証明されていない時代などは除いて)
ということは、悩みを深める、増やす、複雑化するということが、もしかすると、人類の使命になっているのかもしれないということです。時代や文明が発達すればするほど悩みも増えるのですから、そう見てもおかしいとは言い切れないでしょう。
人類や文明が進化すれば、悩みごとはなくなるか、少なくとも、昔より減っていくのが普通ではないでしょうか。
それなのに、今の人たちの苦悩は、皆さん、表に出さないだけで、実は相当大変で深刻なものになっているのではないかと感じています。(もちろん、悩みごともなく、幸せいっぱいの人もいらっしゃるでしょうが)
ならば、私たちは、悩むことが課さられている種(人間・生き物)なのだと考えてみるわけです。それがつまりは、冒頭で述べた「悩むことが、私たち人類の仕事・使命」だという意味です。
では、なぜ、悩むことを、私たちは仕事としなくてはならないのでしょうか? ここを考えることが、非常に重要ではないかと思っています。
人によっては、そのテーマは、哲学的になるかもしれませんし、スピリチュアル的なことで見ようとするかもしれません。また、心理的な意味(個人とその個人を超えた領域も含むトランスパーソナルな意味においても)で考察するのも面白いでしょう。
私の考えを少し言いますと、まず心理的には、自分が自分であるための証明を発したいという意味の理由があると考えています。
世の中が複雑になればなるほど、実は標準化されるといいますか、皆さん、個人が全体の巨大なネットワークの中で埋もれた状態になっていきます。いわば、ネットワークシステムの中の、ただの中継地点みたいなものです。
時には、中継地点のレベルを超え、自らが発電や起点になるかのような、大きな個性を持つ場合もあるでしょうが、それも大きなネットワークの中で見れば、やはりただの、少々目立つ点(ポイント)に過ぎません。
そんな中で、点としての一人ひとりが、自分の存在をネットワークに響かせるには、イレギュラーを起こして、アラームを鳴らせることが考えられます。ほかにも方法はあるでしょうが、注意を全体に促す方法(つまりは注目してもらうための方法)としては、効果的だと言えます。
ひとつの点であっても、それがシステムエラーを起こすと、全体としての機能に問題が出るかもしれないからです。(実際は、切り捨てられたり、ほかの部分でカバーできたりするので、全体からすれば真の問題とは言えないのですが)
それが、一人ひとりの問題や悩みです。
「僕は、私はここにいる」「僕は僕です」「私は私なんです」「こんな私を無視しないでください」「私に注目してください」という、悲痛ともいえる心(自我として)の叫び、訴えのようなものと言えます。
ひねくれてきますと、一筋縄ではいかない問題として起こしてきます。
「そうはいっても・・・」みたいに、なかなか問題を解決させようとしません。ひとつ解消しても、次々と新しい悩みや問題を認識させようとします。
簡単に悩みとか問題が解決すれば、自分の存在価値がなくなってしまうからです。(自分が埋もれてしまう)
そうして、何度でも、悩みは形を変えて、内容を変えて、自らの中に起こってきます。
このような、自己の存在価値、自我としての個性を訴えるために悩みや問題が起きる(起こす)という説がひとつです。
時代とともに、より個性を出したい思いも強くなり、単純な問題よりも複雑で難しく、こじらせた問題にもなってきます。あるいは複数の悩みを同時に抱えた状態にもなります。
しかし、一方で、ネットワークシステム全体(側)から見た場合、さきほど、それは真の問題にはならないと言いました。
システム全体が親のようなものとして仮定すると、一人ひとりの存在の叫び(悩みとしてのエラー・アラーム)は、ネットワークを介して、自然に修復する力を持ちますし(よしよし、わかったよとなだめるみたいなもの)、難しい問題でも、何とかしようと全体で演算処理するよう働きます。
その結果、全体システム側は、点の一人ひとりの悩みを解決するため(存在を認めてあげるため)、ほかの適切な人(点)に会わせたり、状況(全体の中での、色分けされた小規模のネットワークの構築)を作り出したりします。
この一連の働きが、ネットワークをというか全体の知能を進化させているように思います。
問題は、点としての我々を、本当に機械的な点にしてしまおうというネットワークに発達してしまうのか、個として独立しながら(個の存在を認めながら)、ネットワークにつながることによって、全体そのものが巨大な集合個でありつつ、ネットワークとしての点(個)としても機能するという、入れ子構造的個とネットワークの発達に向かうのかということです。
私たちは悩みや問題を通して、どちらを選択するのだろうかというテーマ(課題)がありそうです。
前者は、機械的な全体管理主義的な話となり、私たちの人としての個性は消え、機械の一部として機能するようなものとなりますが、それはそれで、便利で合理的なシステムとなって、悩みは少なくなる方向も期待できます。(悩みという概念が、そもそも消失していく世界)
後者は、個としての人を保ちつつ、共同システム的な能力・体制にも対応することができるという感じでしょうか。
SF的なスピリチュアル風にいえば、前者は個性を消す代わりに、ひとつりの巨大な機会人間として、合理的に悩みのないワンオーダーな世界を作るということになりますし、後者は個はあくまて残しつつ、個と個がつながる次元を作ることによって、そこでお互いを認識し合い(よって孤独という感覚や、自分を訴える必要性が少なくなる)、便利さの追及や問題の解決を、全体のつながりで図っていくというような状態で、いわば、人でありながら神(宇宙)のようにひとつになるような状態です。
いずれにしても、人が悩むことは必然のようなものになってきており、それも、より複雑化しているわけで、これは一面、人としての進化の側面を持っている(進化が急速に進んでいるともとれる)という話です。
しかしながら、この先、私たちの選択によって、悩みの解消として新しい方向性が結実していく時、今述べたような、大きくわけてふたつの道に分かれていくような気がします。
悩みの中に、ただの現実的観点だけではなく、精神はもとより、霊性や魂の進化の観点を入れておかないと、この先、私たちは、「自我意識」をもたない機械的存在として、ある空間に押し込められたままのおそれもあるかもしれません。
マルセイユタロットを見ながら、そういうことが浮かんできた次第です。
いちテロティストの戯言、ただの妄想と思っていただいても構いませんが、個人的には、とても重要なことを述べさせていただいていると思っています。
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