天国はここにある
履修者用メルマガでは、皆さんにお知らせし、生徒さんの間ではご存じだった人も多いと思いますが、ここしばらくというか、この一年、体調不良や、精神的な葛藤が続き、なかなか大変な時を過ごしておりました。
そんな中でも、できる範囲でタロットの講義やタロットリーディングを続ける中で、仕事の立場としましては、もちろん、こちらがサポートしたり、知識や技術を与えていったりする側ですが、むしろ、逆にクライアントや生徒さんから、大きな力を得ていたところもありました。助けられていたと言ってもよいです。
こういうことを経験していくと、現実世界での役割とか、立場とかはあっても、本当に人は真の意味で平等なのだと思うことがあります。言ってみれば、みな、アクター(演者)であり、観客と言っていいのかもしれません。
それでも、たとえ、この世界が映画のような舞台だとしても、楽しい、苦しいという実感があります。(それも幻想かもしれませんが、味わうことは確かです)
楽しいことはよいのですが、人生には苦しみ、悲しみ、つらいこともあります。むしろ、多いと言ってもいいほどです。
そうやって実際に生きづらさを感じたり、何か自分を生きていないと思ったり、生活(生きること)自体が苦しいと感じていたりする人も少なくありません。そういうい人は、私もそうでしたが、この世は地獄ほどではないにしても、修羅的な生きにくい世界だと思っていることでしょう。
心の持ちようや、経済的な補助、あるいは成功を収めたりして、それを減らすことは可能かもしれませんが、完全に滅するというのは難しいと思います。
現実に、やはりこの世には、理不尽なところがあると思わざるを得ないところが、どうしても私の中にもあり、しかもマルセイユタロットが示すと言われるグノーシス的な思想によって、この(現実の)世界が、偽物の神によって創造されたという説話(神話)を聞くに及び、ますます地上(現実)と天上(理想・イデア)との調和について、混迷が深まってくるのでした。
このため、私は何度か、精神的・霊的ともいえる危機や迷いの道に入り、おそらく今年もそうした中の大きな段階にいたと考えられます。
ところが、昨日、ふと、抜けた感じというか、新たな気づきが生まれました。
私の場合は、思考をつきつめ、さらに感情を味わい、葛藤を続けていくことで、ついにある瞬間、さらにその上を行く直観をもたらせることで、真の気づき(と思えるもの)が出ます。(人によって、また自分の特性によって、(深い)気づきの方法は人それぞれになります)
それで得たものは、「天国はここにある」という言葉でした。
これは、別に新しい考えでも、驚くような発見でもないのですが、結局のところ、自分の内に天国はある、あるいは天国を作ることが先決という確信に近いものが出たわけです。
マルセイユタロットでいえば、まさに「吊るし」と「世界」との関係です。
よくスピリチュアルな世界では、内なるものの投影として外なる現実や環境となっていると言われますが、これは心理的な意味だけではなく、霊的な事実というか、観点として、正しいのではないかというのが、思考よりも、直観として感じられるものになってきました。
変な話にはなりますが、感覚的には、グルリと内と外を、まるでリバーシブルするかのように感じられるわけです。
そうなりますと、いかに自分が大切か、自分の幸せ(これには段階や種類があることも重要です)や、天国を自分にもたらすことが、結局世界としての救いになるのだという意味に気が付いてくるわけです。
ただ、これは現実への妥協とか、迎合とかという意味でもないですし、精神や感情的な話の段階でもないのです。(無関係ではありませんが)
気づきは散歩中に訪れたのですが、家に戻ってから、、改めてマルセイユタロットを見直してみました。
すると、なんということでしょうか、タロットにはすでにそのことは描かれていたというか、私の理解がまだまだ浅かったことに気がづき、タロットの見え方自体も変わっていたのでした。(こういうことは、マルセイユタロットをやってまいすと、大なり小あり、あります)
当たり前ですが、マルセイユタロットも形や構造は、いつも同じ(絵に変化はないこと)なのですが、ステージ、段階、レヴェル、次元によっては、見え方や、理解が異なってくるのです。それは、この世の仕組みと同様と言えます。
天国の話に戻りますと、いつでもどこでも、そこ(自分に)天国はあるのですが、その天国のレヴェルや段階(のイメージ・理解・認識)が低いほど、幻想として、地上的なものとして天国が見えてきます。言い方を変えれば、外側の環境にある比較される対象として、天国が感じられるということです。
それは地上と天国が文字通り、地と天の別の場所にあると分離して見てしまうか、地上に、それこそ天上を無視した地上だけの意味の天国を見出そうとしたり、作ろうとしたりすることにもなります。
しかし、自分の内なる気づきや段階が進むと、天国の見え方の構造も変わり、次第に現実とは別の意味で、リアルに自分の中に天国が存在してくるようになると考えられます。
天国というのは、いわゆる幸せ感覚に近く、まつたく違う部分もあるのですが、似たところもあるのです。
厳しい世の中に自分を同調させ、自分が感じた悲惨でつらい世の中として、同様に自分を痛め、悲しめ、苦しませるのは、自らで地獄を作っているのと同じです。
残念ながら、世界には、そうしたネガティブで自らを苦しめる思想・観念・エネルギーが残存し、それを私たち善良なるものが受けてしまうシステムが働いています。また、実際に、いまだ厳しいところが多いのも、現実的には事実です。
自分の中に天国があること、天国に近づけることを、少しずつでも感じていき、内と外の反転の実体を叡智として学び、あるいは感覚的なものとして実感していった時、まず自分の(外の)世界は大きく変わるでしょう。
この天国(カードとしては「世界」)に近づく段階こそが、マルセイユタロットの絵の象徴でもあるのです。
さきほど、述べたように、宇宙は根本構造として同じではあるのですが、次元やレヴェル別に変えていかないと、同じ階層同士では通じ合っても、階層が違うと、そもそも理解が難しくなり、それどころか、反発したり、誤解してしまったりすることがあります。
高邁な理想も、現実の場面では何の解決にもならないということはよくあることです。「えらそーなことを言う前に金くれ」とか、「こっちは生活がかかっているんだ!」「背に腹は代えられん」・・・みたいな話になるわけです。
そういう意味では、とにかく、自分の小さな天国、あるいは、幸せや満足だと思える状態を実現していくこと、その実現を阻む障害や考え方、縛りをはずしていくこと、浄化していくことが大切となります。
そうしていくうちに、自分の思っていた最初の天国(満足・幸せ)がちょっと違っていたこと、次に想像した天国もまたレヴェルが違っていたことなどに、気づいていくことになるでしょう。
その繰り返しで、本当の天国が、やがて現れてくるのだと思います。それこそが言い換えれば、グノーシス(自身の神への認識)に至ること(過程でもあること)だと、理解してきました。
まずは、自分の状態、レヴェルにおいて、幸せになること、自分を痛めつけないこと、卑下しないこと、自分をもっとねぎらい、いたわり、大事にし、尊重することが、天国への入り口となるでしょう。
私自身も、そして皆さんへも、天国に至る道を、マルセイユタロットを使いながら、その人自身の段階でサポートしていければと思います。
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