問題の認識、その発信と解決

人にとって、何も問題のない状態というのは、なかなかないのではないかと思います。

結局、問題というのは、本人が問題であると感じたり、思ったりしない限りは問題ではないのですから、結局のところは、感情や気持ち、あるいは思考や判断が、問題を決定している、生み出していると言ってよいかもしれません。

ということは、いかに問題と感じないか、思わないでいられるかということが、楽に生きるコツとなると考えられます。

ここで注意したいのは、起こっている自体そのものは、ただそういう事実というだけであり、それがいいことか悪いことか、はたまた問題であるか否かとは別である、ということです。

例えば、何か病気になった、仕事をなくした、恋人にふられたなどということは、いかにも問題と思えますが、それは先述したように、そういう事象が起こっただけで、問題であるかは、あくまで本人がそう思っているかどうかによります。

さらにいえば、起こっていることで、痛い、苦しいということを感じていても、だからといって、それが問題や悩みと本人が思っているかは別で、たいていは痛みや苦しみがあれば、「問題である」と思う人がほとんであっても、そうではないと(思う)人もいるということです。

思いや判断が問題を決めている(問題として確定させている)とは、そういうことです。

だから、自らの感情や思考のパターンを知ったり、学びをして、変えていったりすることは大切になるのです。

しかしながら、よほどの悟った人くらいでなければ、実際、心や体の痛み、苦しみ、不快さ、現実で起こる不幸のような事態は、普通は問題・悩みとなってしまうのが、これまた人間であるところの特徴とも言えましょう。

その問題や悩みを解決していくこと、軽減していくことを求めるのも、人として当たり前の気持ち、行為と言えます。時には依存になってしまったり、弱気になったりすることも、その本人の苦しみの次第では、仕方ない面もあります。

ここで、全体と個(個人・個性)という、マルセイユタロットでもお馴染みの観点で見れば、ひとりひとりの問題は、困っていることとして感じる「問題」としては同じであっても、内容や程度などはまったく異なるものと言えます。

タロットでの相談においても、大まかに分けると、実は小アルカナに関係する4つの組の問題、さらに言えば、ふたつの問題で大分類できるのですが、こういう共通した「全体的」特質とともに、やはり個人別としての問題の個性も出てきます。

ですから、これは非常に重要なことだと私は思っていますが、問題や悩みに対する、ある種の共通パータンの対応・解決策があると同時に、それが全員にそのままきれいに当てはまるわけではなく、ひとりひとり、個別での対応・治療・解決の状況も存在するということです。

誰かがあれでよくなった、解決したといっても、その方法や内容、日数などは、人によって違うわけですし、自分には効果がないこともありえます。

従って、まさに自分の問題は自分なりのペースや、解決のやり方があり、いわば、問題にも個性があれば、解決にも、個人的(個別)処方箋があるのだと考えれば、何かひとつを信奉しすぎたり、誰かの洗脳にあったりすることは少なくなるのではないかと思います。

また自分に合わないものがあるのも当然で、それで自分がおかしいと思うのではなく、ただ単に、人はこの世界では個性的存在であることが証明されているだけのことです。

かといって、自己流がすべてよいとうわけではなく、人としての共通点があることも先述した通りです。

言い方を換えれば、誰かの問題・悩みは、確かにその人の個別的なものですが、それは私たち全員にとって無関係ではなく、何らかの必要性があって発生しているとも言えるのです。

よって、私はこうも思うのです。

今の情報化社会、いろいろな人が自分で世界に向けて発信てきるようになりました。その情報はまさに千差万別、いいも悪いも、本当も嘘も、まさに玉石混交、様々に存在していることでしょう。

その中で、自己の問題や悩みと、その解決・軽減に取り組んだ過程、結果を(本当のこととして)披露している情報があれば、きっと、誰か、問題を抱えている人に役立つことになるのではないかということです。

さきほど、問題は個別なものであり、解決もその人のオリジナル性があると言ったことと、矛盾しているように感じるかもしれません。

しかし、「問題」は、人として共通の部分もあり、発信した人と見た人の状態が、まったく同じではないのは当然ながらも、そこにやはり軽減・解決・気づきとしての何がしかのヒントも共通としてあると思われるのです。

どんな人でも、人や薬、技術からの援助があったとしても、問題を解決する(あるいは問題認識を消失させる)のは、自分自身の思いや力です。

悩み、苦しんでいる人が、その解決を求め、ネットでの関連する情報を探して、たまたま行き着いたものが、誰かの発信した自分の問題とその対応の話で、それによって、(見ている、読んでいる側の)自分自身の何かの気づきや解決のきっかけ、安寧を得るヒントになることも、今の時代、十分に考えられます。

実のところ、問題は、その人自身のみで抱え込むことによって、大きな困難性として認識され(悪い意味での問題の成長)、余計、石のように固まってしまうおそれもあると考えています。

問題を誰かに話し、シェアし、皆でなくしていくような共通な思いというか、つながりができれば、かなりの問題は早く解決し、個性的な対応策が多く登場したり、問題そのものが社会から消失していったりすることも加速するのではないかと想像しています。

ということで、少なくとも、自分の以前の問題が解決したとか、軽くなったとして、問題を過去的なものとして扱える人は、自らその経験を発信していただければよいのではないかと思います。

役に立たないようでいて、きっと誰か、いや、大げさに言えば、人類全体とつながって、見えない形でも役に立つのではないかと思えるからです。

あなたの問題は、あなた個人としては確かに大変だと思いますが、皆の役にも立っているのです。もちろん、あなた個人としての問題がなくなり、楽になることが先決ですが。

皆で楽にしあう」というイメージが、見えないネットワークを稼働させ、個が全体の力になっていくシステムも、実はあるのではないかと思えるわけです。

ということは、逆に、ネガティブなものも、多くの人が思えば、個が全体として増幅されたものなりますので、なるべくなら、そうした思いは出さないほうがよいことになります。

でも、発生する感情そのものはコントロールできませんので(そのあとのコントロールは可能としても)、ネガティブに思うなというのも無理なことです。

ですから、意識的に祈りとか感謝とか赦しとか、そういう感情を、皆のつながりとして思うということをし、個別でもやっていくとよいのではないかと思います。

個でありながら、全体を意識すること(よい意味で)、は、今の時代、特に必要なことではないかと考えています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top