自分と他人 大アルカナの象徴
マルセイユタロットの、特に大アルカナ22枚は、いろいな象徴と元型を表しますので、活用の幅は広いです。
ここで、ひとつの見方として、22人の人間パターンというように考えてみますと、外向きには、ほかの人たち、個人それぞれの性格や職業、特質としてとらえることもできますし、内的には、自らの内にある、別人格と見ることも可能です。
カードを中心(基準)にして、内と外を見る、そうすると、面白いことに気づいてきます。
それは、まるでカードが鏡、あるいは切り替えゲートのように感じられ、結局、内も外も、カードを通してみれば、反転しているだけではないかと考えられるというものです。
タロットカードがあるだけで、内外をつなぎ、その壁を取り払うことができるのです。
性格や人間パターンをテーマとする時、カードは、あなたの中の人間(人格)と、周囲の人、すなわち自分とは違う他人の性格や人格との共通点(パターン)を、見る人に自覚させます。
「私の中のこれは、あの人の中のあれにある」 反対に、「あの人のあれは、私の中のこれにある」 このようなことがカードの象徴を通して、見えてくるわけです。
人は共通点が見つかると、親近感を覚えるものです。
自分と他人は違う存在(人間)であるのは間違いないのですが、それはあるレベルにおいての話です。通常次元と言い換えてもよいでしょう。
しかし、もう少しレベルや次元を上げていけば、違いは少しずつ消え、共通点のほうが目立ってきます。
究極まで行けば、人はみな同じということで、確かに遺伝子構造レベルでは同じ種ですし、もっといえば、生物全部という概念で、すべてのものは根源的なものとして、ひとつの存在に象徴できるでしょう。
面白いもので、人は、思考や感情によって、他人と一緒の統合空間や抽象空間を作り出すことができます。
例えば、愛し合っている者同士の間では、共通点のほうが意識することが多く、それは、二人がともに「同じ」でありたいという気持ちから生み出されているものです。
特に時間と空間を一緒にしたいという思いが出てきているため、三次元の中に別のスポットを作り出しているようなもので、そこでは、まさに“二人の世界”ができあがっており、その意味では、その世界は狭いようでいて、次元やレベル、質が変容しているため、二人という間では、ほかの人よりも共有感が出ているのです。(逆に別れたいペアは、お互いが違うことを意識し、現実の一般時空に戻ろうとします)
愛し合う二人の間では、「あなたは私、私はあなた」という感覚(を求める気持ち)が強くなり、個別・具体・違いとして隔てていた壁は薄くなるか、消えるかしています。(とはいえ、そういうモード状態の時だけの話で、これは、どちらかというと幻想空間に近いですが)
人間関係の問題では、違いや異質性を発見・強調し、指摘することで、反発やこじれがひどくなってきます。
相手を嫌な人、嫌いだと思えば思うほど、自分と相手との違いを見つけようとします。
ところが、タロットカードによる元型パターンに戻して、レベルを上げ、抽象化していくと、違いはむしろ消えていき、同じところが目立つようになります。
たとえ違いを認識しても、それはタロット的に言えば、22の違いでしかないので、逆に個性として認め合うことも可能になります。
ところで、タロットには「世界」というカードがあります。このカードは21という数を持ち、数の順番として見ると、最終局面、到達点のカードともいえます。いわば、完成された「世界」(境地)というわけです。
すると、その「世界」というのは、単独で存在するものではなく、バラエティあってのものということが絵柄からわかります。
究極的には「世界」としてひとつでありながら、多くの個性や違いをもって、有機的に統合されているように見えるもの、それが完成された「世界」だと、このカードは語っているかのようです。
いや、見方によっては、すでに1という最初の数を持つ、「手品師」(ほかのカードでは魔術師・奇術師)の段階で、「世界」と同じ要素があり、それは、もう、最初からいつも「世界」の状態であることが示されているようにも思います。ただ、その表現やレベルの段階が違うのだということです。
人の違いを、自分から排除するために見るのではなく、むしろ助け合いや生き残りのため(生存戦略)に、必要なこととして観点を変えれば、異質点も、世界全体の中のただの一面(しかし完全性の中では必要なピース)としか見えず、こだわり過ぎることもなくなり、排除するものではなく、受け入れるものとして見えてくるでしょう。
内的に見れば、嫌な人の部分の中、異質と感じる人の部分の中に、自分があこがれたり、ほしいと思ったりしている能力が存在している場合もあります。もちろん、バランス的には過剰なものとして(逆の不足もあり)見せられ、気になってしまうということもあるでしょう。
「あの嫌な人のどこかに、自分があこがれたり、ほしいと思うような要素があるのか」と、誰もが思うかもしれませんが、それは個人個人として、具体的に見過ぎているからです。
ここでも書いたように、カードを基本として、パターンや元型として抽象化していけば、個人的人格(その人の表す実際の人間性や性格、考え方・行動様式の意味での人格)から離れ、ひとつの人の型として、データのように見えてくるでしょう。かといって、記号化(単純な機械的な形式で見てしまう方法)してはいけません。
ここで言っているのは、カードによる自他の人格の抽象化のことであり、結局のところ、他人を見て、自分の内的な人格を統合していこうという方法のひとつを述べているのです。(これには相手から見た自分という視線も必要で、都合、自他統合の意味では、ふたつではなく、四重の統合になります)
と言っても、無理矢理嫌いな人を好きになる必要はありません。それはストレスがかかるだけです。
そうではなく、(他)人というものを現実性や具体性から切り離し、純粋な象徴パターンとしてとらえ直すことで、自らの囚われを解放し、見えてくるものがあるということです。
あなたが気になる人、それは好きでも嫌いでも、中立性(何も思わない)を超えて、そう感じるのなら、あなたの中にそれ(その人)を気にかけなければならない何かがあるのです。
それが、マルセイユタロット的にいえば、大アルカナ22のカードの象徴性として見ることができるのです。
なお、このようなケースでの(象徴化を支援するツールの)場合、大アルカナでなければならない理由があります。このことは、またいつかお話することもあると思いますし、講義では説明しております。
とにかく、タロットの活用と応用は、皆さんが思っているより広範囲であり、特に、ある専門知識とか技術を学んでいらっしゃる方にも、別の整理ツールとして有用になると思います。
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