「神の家」の自信
私たちは普段何も思わない人でも、不安な状況にさらされたり、決断がなかないできない状態や、何をしていいかわからなくなったりすると、迷い・混乱に陥り、自分への自信を失うことが多くなります。
自分ではわからない、自分では決断を下せないのですから、判断のもとたる自分自身に、しゃれではないですが、自信が持てなくなるわけです。
まさに、自身の揺らぎ=自信の喪失とでも言えましょうか。
マルセイユタロットでは、揺らぎのない自分と、自信を獲得した状態は、「神の家」で表されるものと考えられます。
一方、数のうえで、その「神の家」の前のカードに当たる「悪魔」は、悪魔による自信と、ひとつには解釈できます。
「悪魔による自信」とは、カリスマ的な人や、自分が信仰に近い形で敬愛・崇拝している人に寄りそうことで、自分の自信に換えているというもので、よくあるパターンです。
悪い言い方をすれば、“虎の威を借る狐”みたいなところもありますが、よい言い方をすれば、その人をモデルにしながら、自分の中にある自信の部分を見出そう、創り出そうとしている状態とも言えます。
しかし、その悪魔から承認してもらうこと(ほめられたり、評価されたりすること)でしか、自分の価値や自信が持てない状態が続くと、それは依存ということになります。(中には、悪魔側が依存している、つまりは共依存関係もありえます)
自分が悪魔である(この場合の悪魔は、一般に言われる悪の道に誘惑したり、非道を行う悪魔的存在という意味ではなく、マルセイユタロットカードに象徴されるカリスマや影響力のある魅力的な人物の象徴と取ってください)ことを自覚している人(演出している人も含む)の中には、本当に、悪い意味での悪魔になってしまっている人と、共に成長を図ろうとしているよい悪魔がいます。
言い換えれば、わざとか、無意識のうちに依存させて、自分についてくる人のエネルギー(目に見えないものだけではなく、お金、時間、熱意、その他もろもろの形の場合もあります)を奪い、自分をさらに肥大させようとするのが悪い悪魔で、人からエネルギーはもらうものの、それ以上に自分もよい意味で拡大し、力をつけ、それらを人に還元していくタイプがよい悪魔と言えましょう。
この区別には、やはり、「愛」というものがひとつの基準になると思います。
悪魔中心(悪魔自身に向けられているだけの、自己愛中心)なのか、双方向(自分だけではなく、他者愛)にもなっているかどうかという点が重要ではないかと思います。
ただ、どちらにしても、この「愛」も、情とからむことが多く、従って、「愛情」「情愛」と書くと、よい悪魔との関係も、理性が働かない感情的なつながりが中心(タロット的にいえば、杯であり、剣の力が薄い)状態になっているとも考えられます。ゆえに、その関係性は断ち切りにくいわけです。
そこで、「神の家」です。
「神の家」と書くと、神様が住まう神殿とか神社を想像するかもしれませんが、マルセイユタロットの「神の家」は、神殿というより、文字通り、神の家(フランス語で、カードの名前がそう書かれています)なのです。
これでは、まだわかりづらいですよね。
もうちょっと補足説明すると、「神の家」を、例えば、「田中さんの家」というふうに、「神」の部分を固有名詞にして比較すれば、言っていることが、わかってくると思います。
上述の、「田中さんの家」と書けば、それは田中さんの住んでいる家、もしくは田中さんの所有する家と思うのが普通です。しかし、これを「田中さんが家」だとすると、まったく変わってくると思います。
そう、「神の家」も「神が家」と言い換えた、いわば反転した言い方をすれば、「家が神」ということになります。
この(神の)家も建物(メゾン・マンション)みたいなイメージが、マルセイユタロットにはありますから、神の家が建ったというような感じであり、しかも、「神が家」という言い方をすれば、まさに、家=神、建物=神の状態なわけですから、神が来た、神になる、に近いのです。
そして、この神とは誰か?です。
もう皆さん、おわかりかと思いますが、この神とは「自分」です。もともと自分の内にあった神性が、長い間の気づきや修行を経て覚醒し、自分が神であることを認識する強烈な変化が起きたのです。
ここで、やっと、最初の話に戻ります。
こうなると、自分が神(これは、おごった言い方ではなく、完全性の悟りや宇宙、大いなるものと一体化することとイメージすればよいでしょう)になることに覚醒したわけですから、その自信は、もはや人間レベルの比ではないことがわかります。
本当の意味での自信、誇りに目覚めたのです。
「悪魔」では、誰かを悪魔(仮託する存在)にして、自信(自身)を承認してもらう必要がありました。あるいは、自分が悪魔となって、つき従う人のエネルギー、状態を感じて(自分に流入させて)、悪魔としての自信を得ていたとも言えます。
それが、「神の家」になると、完全に自立し、もう、悪魔は必要なくなり、自分の神性そのものによって支えることができるようになっています。描かれているような、揺るぎない強固な建物の自信です。(ちなみに破壊されているように見える上部の王冠も、一説では、天からの戴冠と言われます)
そして、悪魔と情で結びついていたとしても、その悪魔からの自立、解放、脱却ができるのです。
日本語は面白いもので、自信、自身、自神と同じ発音をします。ちなみに地震もそうですね。(笑) これらは、深くわかってきますと、すべて「神の家」のカードに、まるで偶然のように、凝縮されているようにも読み取れます。
ところで、「神の家」と数のうえで関連性のあるカードと言えば、「恋人」カードがあげられます。この二枚は、ローマ数字の「6」で共有していることを示しています。
恋人カードでは、人間が相談していたり、迷っていたりするようにも見えますし、上空には異次元的存在ともいえる「天使」「キューピッド(クピド)」がいます。
一方、「神の家」にも、ひっくりかえった人間のような二人がいて、さらに強烈な光が建物に降下していて、これも異次元的な影響が上には感じられます。
どちらにしても、二枚における(普通の)人間と思える人たちは、揺るぎない状態とは、とても思えませんし、自信という観点からしても、それが強くあるようには見えません。
このことから、私たちの通常状態、普通の人である時は、迷うのが当然ともいえ、時に自信も失いますが、別の見方をすれば、自信を持つということは、段階やレベルに応じたものが存在していると考えられることです。
最初から、揺るぎない自信(=自身)を得られるわけではないのです。
しかし、内奥には、神性なる自分、神である宇宙的な自信が存在し、言い換えれば、宇宙そのものである自分がいるため、自信がないとかあるとかの問題ではなく、すべてはありのままで安心立命の境地そのものだとも言えるわけです。
そのことを思い出す旅をしているのが、人生なのかもしれません。
どんな人にも悩みや迷いはあり、その度(旅)に、自信を失うことはあるでしょう。
また、悪魔の登場によって、つながれたり、承認されたりする形ではありますが、他人からの影響と学習で、自信をつけていくこともあるでしょう。
様々な状況の中で、私たちは、本当の自信(自身)を構築していくのです。それが「神の家」を目指す作業とも言えます。
頼り・頼られしながらもありだと思います。人は一人では生きて行けません。
あなたが、誰かの自信を回復させたり、得たりするためのサポートやきっかけとなるかもしれませんし、反対に、自分の自信喪失を、誰かに取り戻してもらったり、与えてもらったりすることもあります。
人を助けるのもいいですが、ますば自分を助けて、自らが自信を持つことが、ほかの人の自信を取り戻させる流れとなるでしょう。
そのように、マルセイユタロットは全体像から語っています。
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