「世界」のカードと現実の世界
タロットカードで伝統性を受け継いでいるものなら、大アルカナの最後にして最終の到達地点、かつ最高の境地といわれる「世界」のカードがあります。
この「世界」を文字通り、私たちの今の現実の世界と取るか、そうではない別の世界や次元を描いていると取るのかでは、大きく解釈も違ってくるでしょう。
最初の一文で書いたような解釈(到達地のようなイメージ)では、後者、今の現実の世界の状態よりも、もっと高いレベルの世界であると考えられます。
しかし、普通に、そのまま私たちの世界を示す、としてもよいわけです。
そして、実は、両方の解釈を成り立たせることもできます。
この現実の世界は、一見すると、無秩序で混沌としており、完全とは言い難い、不公平や問題が山積された世界のように見えます。
それでも、もし「世界」のカードが示すように、この現実世界さえも完全で、最高の状態(の世界)であるとすれは、いったい(この矛盾を)どう受け入れればよいのでしょうか?
ひとつには、全員が一致して世界を見るのではなく、一人一人が自分の見る“世界”として感じることで、その説明が可能になります。
個人なら、世界が完全だと思うこともできますし、逆に不完全だと見ることもできます。要するに、あなた次第、自分次第で、この世界をいかようにでもとられえられる、解釈することが可能という見方です。
これは極めて心の問題、物事の考え方によることになります。平たく言えば、気の持ちようというレベルの話にもなってきます。
それだけに、誰でも、思考さえ変えれば、世界は完全性をもって現れるということになり、あとは平穏や完全を、結構なレベルで感じられる(思考できる)メソッドを身に着ければよいことになります。(よくあるのは瞑想など)
この方法が通じるのは、かなり自己洗脳に近いくらいの強烈な思い込みや信念がないとできないかもしれません。それに、人には不完全さに偏る思考や感情が常に働きますから、なかなかやっかいです。
それでも、あまたの人が、完全や平穏に(比較的)日常的になる方法を開発し、披露したり、教えたりされています。
そうやって、心のコントロールというようなものに成功すれば、まさにいつも天国状態、何があっても、それはネガティブや問題として感じるのではなく、エンターテイメントとして楽しむことができ、自分の世界が現実世界となり(自己のリアリティが現実のリアリティと一致する)、完全なる「世界」という思いで、現実を生き生きと過ごしていくことができるでしょう。
さて、もうひとつの矛盾統合的な方法は、パラレルワールドや次元別世界を設定することです。
普通、私たちの今の世界(過去の世界も、歴史を知るうえでは)が完璧、完全だとは、なかなか思いにくいのが通常でしょう。
自分ひとりだけではなく、周囲の人、地域、国、地球全体を見渡しても、平和で何の問題もない世界であるとは、よほど能天気な人しか思えないはずです。
先述したように、それでも、一人の個人的な観点であれば、自らの内に、あるいは高次の存在として、天国や神、仏、天使などの観念をリアリティをもって信じていた場合などで、「この世は、いかなる時も神(最高の存在・状態)の思し召し、意志、計らいによる完全」を表していると、信念として思い込むことも可能でしょう。これは、宗教的な見方と言ってもいいです。
ただ、多くの人はそうではありません。冷静かどうかは別としても、客観的に外を見て、自分だけではなく、世界には問題が様々にあり、完全なる世界とは言い難いと見ているでしょう。
ところで、さきほど、パラレルワールドや次元を設定するという話をしました。
これは、今、私たちが実際で現実だと感じている世界のほかに、別の世界や、レベルの違う世界が同時に存在していると見る方法です。あるいは、同時ではなくても、「世界」というものには、レベルの違いがあるのだと、ただ想定してもよいです。
そして、ここが矛盾統合で一番重要な点ですが、どのパラレル、または次元の違う世界においても、やはりそのレベルにおいて完全なのだという認識をすることです。
「世界」(の種類)には、非常に高度な発達と調和を遂げた天国的レベルの世界から、かなり低レベルの、見た目は争いや問題の絶えない修羅や地獄のような世界まで存在し、しかしながら、そのどれもが、そのレベルにおいては完全になっているという考えです。
ただ、レベルの違いがあるので、上から下を見れば、下はとんでもなくひどい世界と感じ、逆に、下から上を見れば、上はすばらしき世界、理想的で完全だと思えるような世界に見えるわけです。
言ってみれば、地獄は地獄なりに、完全なる世界として調和しているということです。(笑)
この完全と調和という概念は、理想やイデアというより、そのレベルにおいて過不足なしとか、バランスが取れているという意味であると思っていただいたほうがよいです。
地獄にたとえお花畑があったとしても、それは天国とは違う、地獄にふさわしい花が咲いているというようなもので、それでも地獄の花は地獄の花として、それなりの(地獄としてのバランスのための)役割があるということになります。
翻って、私たちの現実世界を考えますと、問題がある、おかしい、解決すべきことが多いと感じている場合は、どこかもっとレベルの高い世界を知っている可能性があります。
それでも、今の私たちの(集合)意識レベルでは、この世界しか作ることができず、そして、さきほども言ったように、この世界はこの世界のレベルにおいて完全なのです。
私たちが選択し、表現している層の世界が、今のこれなのです。
個人レベルで、この世界は神の創造した世界であるから完全なはずとか、モノの見方・考え方次第で天国にも地獄にも世界は映るという話はしましたが、多くの人は、この世界に矛盾を感じたり、発展途上的な思いがあったり、もっとすばらしい世界にできるのではないかと思っていたりするのではないでしょうか。
ということは、ほとんどの人は、別のレベルの世界を知っているのです。少なくとも、この今の世界の表現においてのレベルと調和・完全性において、全員満足しているとは言い難いのです。(もちろん満足している人もいると思いますが)
言わば、「レベルにおいて、どれも完全」という世界説を取ると、私たちの世界はこれが限界なのです。というより、いつも、いつの時代も、その時点の世界は最高で完全なのです。
ただし、レベル違う世界の移行を思えば、天井はありませんし、上から下を見るような感覚になって、成長の余地が意識されます。
それにしても、私たちはなぜ、別のレベルの世界を知っているのでしょうか?
普通に人の持つ向上心や、文明の発達という概念だけでは説明できないところもあるように思います。
マルセイユタロットも語るように、実体、現実としての形が現れるのは、その前にイデアとしての発想、ビジョン、イメージを想起したり、キャッチしたりする必要があります。
行動の前には、確信のイメージがあると言われるものです。
ということは、私たちの中に、世界のイメージ(様々なレベルの世界イメージ)がもともとあるのではないでしょうか。
それは心が知っているというより、魂・霊が知っているような気がします。
ということで、私たちの世界は、もっと上のレベルの表現(これは現実という意味と同じです)ができるためには、さらに多くの人のイメージ・意識として共有する必要があると思います。
そして、これも矛盾のような、おかしな話に聞こえるかもしれませんが、ひとつのレベルを超えるためには(移行するためには)、今の表現レベルを十分に自覚し、この時点でも完全であることを認識することが重要になると考えられます。
ひとつのレベルの世界を表し尽くすと言いますか、この今の世界が、不足や過剰、問題ある世界と思ってしまっては、逆にそこに留まざるを得ない仕組みがあるように思います。
ピースがそろって初めて次に進めるかのように、今の世界での完全性をできるだけ感じ取れる認識力が十分に発達すれば、やっと、次のステージの世界の表現の道ができるという意味です。
従って、問題意識を放置したたま、やたらと上を目指すより、遠回りなようで、一人ひとりが自分の問題と向き合い、完全性(の認識)を取り戻すことができてくれば、結局それが早道となって、別次元の世界に到達すことができるようになるのではないかと、マルセイユタロットの「世界」を見て思うのです。
この世界と、その表現を決めているのは、私たち自身です。
ただ、もうほとんどの人は、忘却していた、もっと上の次元の世界と表現のイメージや感覚、あるいは人によっては故郷のような郷愁をもって、思い出しているのではないでしょうか。
そんな、時代の移行点に来ていると個人的には思います。
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