自分の幸せか、人の幸せか。

スピリチュアルや心理的な問題の話題などでよくあるのが、自分の幸せが大事なのか、人の幸せや、人との調和が大事なのかというテーマです。

これには、結論としては比較的、まずは自分の幸せが大事だということが言われています。

そうすると、問題は、自分の幸せのために、人の幸せを犠牲にしていいのかということが疑問として起こってきます。

例えば、親の幸せと自分の幸せ観が違っていて、しかし、親を無視することはできないので、結局、自分の幸せを全面的には肯定して生きて行くことがてぎず、妥協するか、自分を優先するところと、そうでないところを、自分なりに調整して生きていくかということが、ケースとして多くあります。

あと、「幸せ」という言葉の定義にもよるでしょう。

何を、どのようなことを、どのような時に幸せと思うのかについては、人それぞれと言ってもよく、全員がすべて一致する幸せ観はあり得ないのが、個性を持つ私たちの世界とも言えます。何を幸せに思うかは、そのほとんどは個人的な価値観で決まってきます。

また、幸せという言葉の響きだけ見れば、いい感じではありますが、極端なことを言えば、他人にものすごく迷惑をかけている状態が、当人にとって幸せと感じている状態かもしれず、しかしそれは幸せ・幸福感というより、個人的な欲望が満たされた状態と言い換えてもよいものです。

となれば、幸せは個人の欲望の達成、充実、満たされ感のこともあり、それは「幸せ」と言っていいものか、ちょっと疑問はありますよね。

こうして考えますと、個人の欲望を満たす、いわば「小さな幸せ感」というものと、個人はもちろん、それを超えた「大きな幸せ感」というものがあり、後者のほうは前者に比べて、ほかの人と対立するような幸せ感(観でもある)とは質と規模が違ってくるのではないかと予想されます。

そして、それはまた、マルセイユタロットの象徴を見ていると、わかってくるテーマ(問題)でもあります。

要するに、自我(自分と現実意識を構成している意識)による幸せは、どうしても自我範囲でのものでしかないということなのです。

この自我が認識している世界というのは、究極的に言えば、本質からは離れた、言ってみれば自我が思う(構成する)バーチャルみたいな世界です。

ただ、やっかいなことに、バーチャルではあるものの、リアリティがものすごくあるので、映画「マトリックス」のように、バーチャルな世界でのケガや死は、そのまま本体にも影響される(同じになる)ほど、リアルな世界にもなっています。やはり自我にとっては現実なのです。

従って、個人の思う幸せというものは、自我である自分が作り出すものであり、どこまでいっても勝手なものと言えます。

結局、欲求まみれの自我の感じる幸せは、まさにその通りであり、エゴの欲望を満たすことでの幸せが中心となります。

欲求とは、いろいろな理由や感情、因縁から起こるものと想定されますが、心理的に言えば、他人や外側の環境と比較して、その不足感から来ていると考えられます。

簡単に言えば、ないと思っているからから求めるわけです。

ただし、外のものと比べての不足感ではありますが、つまるところ、不足だと感じさせているのは、自分の自我・エゴでもありますから、自分(自我)が理想(イメージ)とするものに達していない、不足している、違っているという感覚が、欲求や欲望を生み出していることになります。

最初に例にした、「親子の幸せの違いの問題」は、親の理想・幸せ(親が思う子の状態から不足している、かけ離れているもの)と、子自身の理想・幸せ、(親の言うことが、自分の理想から不足・乖離しているもの)とが、対立しているからです。

でも、よく考えると、それはお互いのイメージ・心の中にあるもの同士の対立です。

究極的には、お互いの自我の現実認識が異なっていて、本当の・本質の理解(スピリチュアル的に言えば宇宙的調和)が、どちらもできていないことで、幻想の理想同士で対立していることになるので、大元・宇宙から見れば、取るに足らない、どちらも真実ではない誤解による争いと言えます。

しかし、そうは言っても、なかなか、親子でも、他人同士でも、それぞれが悟りを得て語り合えるわけではありませんよね。(苦笑)

現実的には、個人個人の価値観でもって対立したり、妥協しあったりしているものです。

だから、自我の中の世界といえども、リアリティのある現実世界の対処として考えれば、お互いの理想(この理想は先述したように、どちらがいいとか悪いとかではなく、本質的にはどれも自我の思う幻想的理想です)や思いが伝わっていないということがあるかもしれませんので、まずは、それをきちんと伝達する、説明するということが求められるてしょう。

だいたい、近しい関係ほど、言葉や文字では言いにくいもので、言葉も本質を示すものではなく、仮のものでしかありませんが、それでも、本質に近づくための手段でもあり、自分の欲求や理想を押し通すというのではなく(主張をするのではなく)、ありのままの正直な気持ちを伝えるということがポイントかと思います。

最初からケンカ腰で行けば、同じ反応(戦闘態勢)で、相手も反応せざるを得ないからです。

そして、ともに理想(と相手への自分のイメージ)があるのを理解し、ここで折衷したり、お互いに妥協したりするのもひとつですが、それでは、幸せ半分どころか、妥協感がある分、かなりそれぞれの幸せ感も少なくなることがあるでしょう。妥協するくらいなら、今まで通り対立していたほうがいいという人もいるくらいです。

ここで、例えば、ドクター・ジョン・ディマティーニ氏の考えを入れれば、幸せ観の違いは、それぞれの価値観の違いでもあるので、自分と相手の価値観の中でシンクロできるものを見て、関係づけや紐づけができれば、妥協ではなく、ともに理想に近づける感覚が得られることにもなりますから(お互いの価値観に沿うので満足感を得る)、それもひとつの方法でしょう。

マルセイユタロットの成長過程や、スピリチュアル的な考えでいくと、自分の低次の欲望から出るようなレベルの自我への認識をしっかりとし、少しずつその自覚と解体(浄化)をしていくことが必要かと思われます。

自我を構成している様々な要因は、たくさんの意識層の中にあり、いわば、貯蔵庫・記録庫のようなものからのデータ類が発動して影響していることが考えられます。まさに、自分が思考し、感じ取った影響のすべてがあるわけです。さらには、カルマ的に言えば、今生だけではないものもあるかもしれません。

ですから、最初は低次の欲求・願望が出できて、それが満たされない苦しみが生じると想像できます。

しかし、次第に霊的な意味での成長(厳密には違いますが、わりやすくあえて言えば心の成長のようなもの)が進めば、気づきとともに、自我の欲求度も違ってくるようになるはずです。

最初に、自分の幸せが大事か、他人の幸せかせ大事かと問いましたが、この境界線・線引きが、自分の成長によってあいまいになってくるのではないかと思います。

つまりは、次第に強い自我枠が解体されていき、意識も拡大され、宇宙と調和した同一の流れ、一体感になって戻ってくるものと推測され、そのため、自分の幸せと他人の幸せとが、自然と一致するようになってくるわけです。

いや、もっと別の言い方をすれば、自分と他人の幸せという区別そのものがなくなるのではないかと思われます。従って、そこに対立という思考・感覚も、次第に消えていくわけです。

多次元宇宙的に言えば、自分と対立していた人が、ほかの宇宙次元では、応援する側になっているというようなものでしょうか。これは相手が変わったのではなく、自分が変わったから、そういう他人に作り変えた(生み出した)と言ってもいいわけです。

ですから、本質的な意味では、結論としては、自分の幸せが大事だということです。

けれども、人との調和を無理に目指してしまうのは、それはまだ浅はかな自我が、自分の現実だと思う世の中で、あくせく相手と自分の妥協を図ろうと策を弄するようなもので、汗をかいたわりには、一時的には関係性は維持できても、不安はつきないという事態が続きます。

それよりも、自分の汚れを落としていく、心の中を見つめ、浄化し、意識を拡大して成長していく方向でのやり方のほうが、お互いの本当の幸せに戻ることの、遠回りなようで近道ではないかと考えられます。

ただ、自分が大事、大切だからと言って、自我・エゴの欲求を強く叶えていく方向と方法は、そのレベルに応じて人と対立することになるのは必然ですから、それも学びや成長のために気づきが起こることならよいのですが、警告や教えを無視して突き進むと、いずれ、人間関係的に破綻を来したり、自らに何かもっと大きな問題が発生したりするので、注意は必要でしょう。

自分のわがままを押し通すことは、ずっと自分の気持ちを抑圧していた人には、自己解放の段階として奏功することもありますが、だからと言って、自己主張が何でもいいわけではないのです。

反対に、相手への配慮というのは、結局、自分への配慮でもあり、過剰に自分に配慮するのも、それはそれでお互いに問題となります。

まあ、人間、皆、自分の考え、想像した世界に一人ひとり生きていますので、間違いがあって当然なのです。考えが皆違うので、意見の対立があるのも当たり前です。

でもそういう中で、共感を得られる経験ということは、すばらしいことでもあります。(しかしまた、共感を得ることに固執するのも、意見の違いで対立していることと同じですから、あまり意味はありません、共感も対立もひとつの同じ経験です)

人によっては、つらい世の中かもしれませんが、時にはタロットの「愚者」のように、気楽に行くのもよいかもしれません。

自他の幸せや、自利・利他について迷っている人の参考になれば幸いです。

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