タロットリーディングとストーリー(物語)

人は、自分のストーリー(物語)で生きていると言えます。

それぞれが自分の培ってきた価値観、善悪、良し悪しの基準などによって、起こる現象に判断を下しているので、当然一人ひとり違ったものの見方になり、それに伴う行動も異なってくるわけです。

そして、導かれる結果も違います。

また、そのプロセスと結果についても、また個人別で見方・価値が違いますので、まさしく、その人のストーリーで人生が組みあがっていくことになります。

ストーリーはストーリーであるだけに、書き換えることも可能なわけです。

もしかすると、土台や大きなスクリプトのようなものは決まっているのかもしれません。しかし、細かいとところや、演出は変えることができると考えられます。

このストーリーは自作自演(笑)なので、物語の当事者・主人公としての(演技をしている)自分と、それを見ている観客としての自分もいるわけで、そのどちらも変えることは可能と考えられますが、特に観客側の立場として見た場合、そのストーリーに何の意味を見出すのかなど、物語の観点・捉え方によって、ストーリーへの価値の変化も大きいかと思います。

さらに言いますと、演技者や、どっぷりストーリー・物語に浸かっている観客とは別の、さらに第三者的な観察者とでも申しましょうか、そういう者が、ストーリーを俯瞰し、ストーリー全体を透徹した目で見て、この物語が演じられるそのこと自体を評価している(別の表現で言えば、愛している)という気もします。いわば、自分自身の中の高いレベルの存在、魂のようなものでしょうか。

マルセイユタロットは、その第三者の視点にまで、自我と自己を上昇させていこう、連れて行こうとするものでもあります。

その途中では、自分自身に見られている状態であることに気づく必要があります。

人は、特に問題状況にある時、自己の演技ばかりに集中しています。

これはいい意味での集中というより、むしろ、悪い意味の集中になっていて、他人から自分(の演技)はどう見られているか?ばかり気にし過ぎて、観客としての自分を忘れているようなものなのです。

つまりは、他人の評価や、他人との比較によって、自分の人生を判定しており、それがために、自分を見失い、自分の力、いや自分の人生そのものを、仮の観客のためにささげている状態と言えます。

しかし、その観客は幻想であり、これまた自分が生みだした、自分の思う他人や社会の集合的な観念のようなものです。戦いで言えば、仮想する敵ですが、実在しているわけではなく、あくまでイメージの中の存在です。

すると、自分の演技・ストーリーはこうあらねばならない、こうすべきだという強迫観念にも似たようなことになり、とても苦しい状態が続きます。

もっとも、これは必ずしも悪いことばかりではなく、仮想の他人としての観客を置くことで、自分を律したり、目標に向かっての努力や行動を、一時的に強化したりすることもあります。

他人に褒められる自分、評価される自分に満足するわけてす。しかし、それは実際に評価されたとしても、ひと時のものであり、その評価を永続させようと、あるいは、もっと評価を得ようと、頑張る必要が出てきて、結局、評価の飢餓感に苛まされることになります。

ですから、ここで、自分自身が観客にいたということを思い出すことです。

これはあくまで自己基準からの評価ですので、どれだけの演技でよいのか、物語がどの程度なら満足するのかなど、自分で決めることができます。

自分がよしとすればそれでいいのです。ここで重要なのは、自分がよしとするためには、やはり他人の観客目線をもってきての相対的な比較をしないということです。

あくまで、自分としてはどうなのかというところが大事です。

ただ、やはり、そうは言っても、そもそもこの「観客としての自分」がよくわからないところもありますし、いくら自分で決めると言っても、しょせん、自分というものは、外の人や社会がいてこそ、自分としての個性がわかるものなので、どうしても比較的なものは出ます。

また、自我による良し悪しの判断もありますから、自分の演技については、結局、自我の(エゴ的なものの)都合によってしまい、観客としての自分のわがまま(欲求)から、演技者としての自分を苦しめてしまうことがあります。

この状態を表すのが、私の使うマルセイユタロットリーディングにおいての、一次的展開における展開(第一次作業による、タロットを引いて並べた)図面になります。

一言で言えば、問題(として思っている)状況を示す展開図と言ってもいいでしょう。

これは先述したように、演技者としての自分と、観客である自分、それに幻想として観客集団(他人目線の)からの要求の統合が図れず、それぞれがバラバラに主張し合っている、もしくは、気づかない状態で、それぞれの立場だけで、はまってしまっている様態と言えます。

そこで、第二次的な展開を、タロットでします。

この作業は、上に書いた、魂的、第三者的観察者を設定するのに似ています。

要するに、舞台監督、または企画・プロデュースしている者のような目線を作るわけです。

こうすると、それぞれの立場を俯瞰して見ることができますので、その調整と、うまく行けば統合を果たすことができます。バラバラだった視点が、ひとつの俯瞰者による観点で、まとまっていくわけです。

タロット的にいえば、細かな調整については、小アルカナを使うことになりますし、第三者的統合的観点の創設には、大アルカナが活躍します。

ただし、タロットの意味を覚えたり、タロットを引いて出たカードの意味を読んだりする、一般のタロット占いやリーディングとは違い、タロットを引かかないで見ると言いますか、もともとのタロットの構成と象徴を骨子(モデル、イデア)とする基準があり、それと、実際に引かれたカードの意味合いを兼ね合わせることで、こうした、いくつもの視点を切り替えながら、俯瞰するという技法を成り立たせることができます。

やっていることは、自分のストーリー、物語を複数の観点から見て、変えられる部分は変えて、自分自身で自らのストーリーを調整して、生きやすくしていくこと、人生をエンジョイ(と言っても、一般的な意味だけでの楽しいということだけを意味するのではありません)したり、充実感を覚えたりしていこうというものです。

究極的には、自分が納得すればOKというのが、自分の人生です。

ならば、納得感をどのように得るのか、というの一番の課題になります。

表(起こった現象、起こした出来事)だけで納得する人もいるかもしれませんが、たいていは裏(起こったことの意味合い、俯瞰・統合する視点)も知らないと納得できないものです。

時系列では、過去には、悔やみや囚われが多く、未来には不安と、やはりここにも囚われがあります。そうしたものが現在の自分の思考・感情として「今」の状態、気分を作り出しています。

それは、納得感ということで言えば、過去も未来も納得できないものがあり、それが今・現在を納得させなくしていると言えます。

だからこそ、今の問題をきかっけにして、自分の人生を過去も未来もストーリーとして俯瞰し、いろいろな立場の自分を見て、調整していくことで納得感を出し、新たなストーリーを創造していくとよいのです。

マルセイユタロットの絵柄は、あえて平板で、普遍的な絵を採用することで、ストーリーを見るには、とても適したものとなっています。

絵を見るだけで、私たちが、人生という絵巻物を演じていることを実感できるのです。

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