タロットに向いている人、向いていない人

タロット学習において、最初、あるいは途中からでも、結構、質問として来るのが、「私はタロットに向いているのでしょうか?」というものです。

これは、まだタロットを学んでいない時の場合と、すでにある程度タロット学習を進めている段階のものとでは、質問の言葉は同じでも、ニュアンスが違います

今からタロットを学ぼうかという人で、「自分はタロットに向いているのか?」と発する場合は、未知なるものへの不安が中心ですし、裏返せば、それだけの期待感もあるのです。

気持ちとしては、「自分が学ぶものに対して相性が良ければいいな」とか、「タロットを自分や他人に活かせるようになれれば嬉しい」というようなワクワクもある反面、「できなかったらどうしよう」とか、「ちゃんと学習についていけるかな?」という不安もあり、これはタロットに限らず、誰しもが抱く、「初めて感覚」のようなものです。

しかし、学習途上で抱くこうした質問は、やってみてからのものであり、単純な不安と期待のものからではないことがあります。

それは、一言でいえば、自分に対する不安、自信喪失であり、一見、技術・知識的な問題であるかのようでいて、実は本人の精神的な問題(の浮上)や危機ということがあるのです。

具体的な表現としては、「自分はタロットを学んできたけれど、なかなかうまくリーディングできない」「結構学習したのに、タロットを活かすということができない、わからない」という感じが多いでしょうか。

これか先述したように、純粋な技術と知識面の技量不足問題であるならば、やり方を変えたり、もっとポイントを絞って指導を受けたり、修練したりすればいいのですが、そうではない精神的なことまて来ているとなると、それだけでは問題は解決しません。

最初は、タロットを読む力とか活かす力が足りないという思いから始まっていても、次第に、学習してもうまくならない自分にあせりとか、怒りとか、情けなさを感じ、自己否定状態になっているわけです。

指導者側から見ると、本当のところ、そういう発言をする人は、最初の頃よりも格段に進歩しており、すでに十分な力があるのに、自己評価が低いという場合がほとんどです。

本人は努力家の人が多く、なかなか頑張っていらっしゃいます。

そして、やはり、普段からも、自己に厳しい評価を下している傾向があります。

結局、できないことを大きくとらえて、自己否定をすることで、自分の成長を促そうとしているのですが、同時に励ましてほしい、勇気づけてほしい、自分の進んできた(学びの道)の選択が間違いではなかったと言ってほしいという思いも強くなっているので、悩みも大きくなります。

もうひとつは、ある程度の学びまで来ると、それまでのものを破壊して再構築していくような段階があり、それはタロットなどの精神的・霊的のフィルードを多く扱うものでは、顕著だということです。またこれも自己成長のプロセスとつながっています。

その段階まで来ると、成長のためには、一時的な落ち込みや混乱、退行のようなことが起きます。

言い換えれば、自分にタロットは向いていないと思えるほどの状況を迎えた場合、逆に順調に進んでいるということなのです。

ですから、学びの途中で「私はタロットに向いていないのでは?」という人は、祝福だと取ってもいいわけで、その人に言えることは、「それだけ強くタロットと自分のことを思えるのは、あなたがタロットに向いている人だからですよ」ということです。(笑)

最初に「向いているかどうか」という質問する人も含めて、私から言いたいのは、タロットに関心を寄せ、しかもそれを学びたいと思った時点で、あなたはタロットに向いている人なのです。

逆に言えば、タロットに向いていない人は、タロットに全く関心を示さない人です。

ここで意外なのは、関心を示すということは、何もポジティブなものだけには限らないのです。

タロットは怖いとか、タロットが嫌いとか、あんなものはしょせん占いの道具などと、バカにしたり、ネガティブに思っていたりしていても、それはマイナス方向での「関心」には違いないので、こういう場合は、あとで180度印象が変わって、タロット好き、タロットに向いている人になるケースがあります。実は私も、タロットに対してはネガティブなイメージがあった側の人間です。(苦笑)

それと、向いている、向いていないという見方ではなく、シンプルに好きか嫌いで見てもいいと思います。

好きこそものの上手なれと言われるように、好きであれば、困難が多少あってもタロットを続けていくことができますし、向いている・向いていないという基準で自分とタロットとの関係を計ることはあまりしなくなります。

タロットのことを語る時、あなたは他人からどのように見えるのかです。私はとても生き生きとしているらしいです。(笑)

それから、そもそも向いている・向いていないとかの二元で分けた捉え方(判断、ジャッジ)をするのではなく、「向いているよにうなる」という方法があります。

私の話をしましょう。

私はもともとはタロット大学(現イシス学院)でカモワンタロット(カモワン版マルセイユタロットとその技術)を学びました。今はカモワン流(カモワンタロット認定講師)ではありませんが、当時の学習システムとして、最終段階では上級コースというのがあり、これはフランスへ行き、グランドマスターであるフィリップ・カモワン氏から講義を受け(通訳つき)、資格認定してもらうことになっていました。

この時は、私はそこそこ自分なりに、今まで構築してきたリーディングには自信がありました。(今の私から見ると、驕りのレベルですが・・・(^^;))

しかし、カモワン氏のリーディングとその技術を初めて直接見た時、これは今まで自分がやってきたものとは次元が違う、別物であるという非常なショックを受けました。

これまでのプライドも技術的なものも何もかもが一気に崩壊したかのような気分でした。(まさに「神の家」のような衝撃です)

それ以来、講義の間中も、うまくタロットが読めなくなってしまいました。初心者に逆戻りした感じです。

そして、講義中のリーディング演習の時間に、組となったお相手がタロットリーダーの際、私は「今混乱しているので、自分がタロットに向いているのか、タロットをこのままま続けてよいか知りたい」という質問(リーディングの題)をしました。

その時のタロット展開はなかなか複雑でした。そして発表(組リーディングにおいて、それぞれのタロット展開と、どうリーディングしたのかを講師及び他の受講生の前で発表するもの)の時に、カモワン氏が私に、最後に新たにカードを一枚引くように指示されました。

私が引いたのは、カモワンタロットでいうところの「斎王」(大アルカナの二番のカード)でした。

カモワン氏は、「これは“タロットリーダー”を表すカードなので、タロット続けるのはよい」みたいな講評をされ、私はとても勇気づけられました。

しかし、これにはオチがあります。(苦笑)

実はこの時の展開法は、タロットの正・逆を取る方法だったのですが、逆位置はネガティブな意味ではないとはいえ、カモワン流では問題を示すカードでした。

私は斎王のカードが正立で出たのか、逆位置で出たのかはほとんど記憶しておらず、というのも、追加でその場で引いたカードなので、落ち着いて正逆まで確認せず、ただ引くことだけに意識が集中していた感じだったからです。

ですから、カモワン氏にどんなカードが出たのかと問われた際も、「斎王が出ました」と答え、カモワン氏から正立か逆位置かを確認されても、よくわからないまま、「正立だったと思います」と述べました。

ところが、あとで、上級コースが終ってだいぶん経ってから、このエピソードを仲間に話すことがあったのですが、同席していた組相手の方が、「宮岡さん、あのカードは逆位置だったんですけどね(笑)」と言われて、「ええっー!!」とズッコケたのを思い出します。

何が言いたいのか言えば、結局、向いている・向いていないなどは超えて、自分がどう思うかだということなのです。

私は斎王が正立で出たということに(正逆という意識がなかったので、斎王が出たということ自体そのものに)感銘を受けて、自分はタロットをやってよいのだという自分に許可を出したことで、いつの間にか、タロットが向いている自分に切り替わっていたのです。

もちろんグランドマスターの言葉、フランスでの講義という、日常とは違う、異質かつ衆目の状況による演出効果・・・これらも私にリアリティを感じさせたに違いありません。

今思えば、一連のことは、すべてタロットの意思や自分の心が見せたものだったのだと考えることができます。

ということで、タロットを学びながら、自分はタロットに向いていないという人は、それは逆説的に言えば、タロットに向いている自分になるチャンスなのだと思っていただければよいです。

つまるところ、向いている・向いていないは、自分が決めることなのです。

また、人から言われないと向いているように思えないのは、まだ承認を人に求めている部分が、タロット以外でも自分の心理にあることに気づかれるとよいでしょう。

でも、それは悪いことではなく、自立のための過程なのです。

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