マルセイユタロット、光の象徴。
アメブロの機能で、数年前に書いた同時期(月)の記事が自分のページにクローズアップされるものがあります。
それによると、私は以前、この時期に「隠者」のカードの光について書いたようです。
ようです・・・って、自分で書いた記事を覚えてないの?と思われるかもしれませんが、私自身は何を書いたのか、過去記事はほとんど覚えていないのです。(苦笑)
このブログは、タロットを見ていて降りてきた内容とか、近辺の日々で思っていたことなどを記事にしているので、自分でも、あまり書いたものは記憶していないのです。
さて、過去記事のタイトルを参考に、今日は「隠者」だけではない、マルセイユタロットにある光について、見ていきたいと思います。
ところで、「光」というものを象徴的に解釈すると、統合や完成の状態であると言うこともできます。
ただ、二元論的な概念になりますと、光に対して闇という、対抗や相反するものが出てきます。
これは案外重要なところで、光の象徴を二元としての闇との対比で用いるのか、一元的なもの(状態・究極)の象徴として見るかは、区別しておく必要があります。
多くの人(特にスピリチュアルに関心のある人)は、このふたつを混同して見ている場合があるのです。
今回とりあげる光の象徴は、闇との比較のものではなく、主に統合や究極、完成の意味での光、もしくはそれに至るための叡智や導きのようなものとしてとらえていただきたいと思います。
では、具体的に、マルセイユタロットの大アルカナで「光」が描かれているものを見て行きましょう。
数(カードの番号)の少ない順から行きますと、「恋人」における天使(クピド)背後の光、「隠者」のランプ(しかし光自体は隠れています)、「悪魔」の松明、「神の家」での降下する巨大な光、「星」での星々の輝き、「月」の月の裏に見える光、「太陽」の太陽そのものの光、「審判」の天使の背後の光、といったところでしょうか。
このほかにも、秘伝・暗号的には、実はたくさんの光の象徴性がその他のカードにもあるのですが、これは「秘密」としておきます。実は、いわば、すべてのカードに光の象徴はあると言えるのですが、この場合は、闇との対比の光も含まれることになります。
話を戻しますと、カードに直接描かれている光(見てわかる光)は、先述のカードたちにあるものですが、それをさらに細かく分けてみますと、何かの光芒としての光、天体の輝き、それ以外と分類できるかもしれません。
ほかの分け方をすると、天使的なものに付随する光(「恋人」や「審判」の背後の光芒など)、ある人物や存在が手に持つ光(「隠者」のランプとか「悪魔」の松明)、そして天体的なもの自体の輝きの光という見方もできるでしょう。
この中で、異質なのは、光を手に持つ存在と、その光自体ですが、これは先に述べたように、「隠者」と「悪魔」に顕著です。しかし、厳密に言えば、「隠者」の光はカバーで覆われたランタンの中にあると“推測されるもの”で、見た目にはわかりません。
そして、「悪魔」の松明も、マルセイユタロットにおいて、だいたいは赤く塗られており、光というより、火のように見えます。そもそも松明ですから、火と見たほうが自然かもしれません。
この「隠者」と「悪魔」の光の描かれ方からでも、その違いが見て取れますので、それぞれを比較することで、光の与え方、受け取り方の意味合いを、皆さんも汲み取ってほしいところです。
最初に、光は統合や完成、究極、(神性なものの)叡智の象徴だと言いました。それでも、闇と対比される光という二元もあることも指摘しました。
「悪魔」は一般的には、悪い存在として見られていますが、「隠者」よりも数においては上に位置し、マルセイユタロットでは、大アルカナの数の進行が、そのまま自己や全体の成長を示すという伝承があります。
ては「悪魔」の松明の光(火)は、「隠者」より優れたものなのでしょうか? もしかすると闇にも関係するのでしょうか?
そして、「隠者」はその名前の通り、なぜか光をあまり目立たせず、覆いのあるランタンによって、光があるかもしれないという示唆に、その表現を留めています。
目立つものと目立たないもの、自身の道を照らようでありながら、まるで誰かに光を託そうとするかの「隠者」、強烈な火の光によって、周囲を照らし、人々を引き寄せる「悪魔」、このような描写から、光と私たちの関係、そして光を扱うものについて、皆さんも考えてみてください。
それから天使に付随する光芒です。これらも色々と考えることができますが、天使は神ではありませんが、通常の人間より高次な存在と見てよいかと思います。
またその言葉通り、天(神)の使いとして考えれば、私たちに(神としての)光を伝えるもの、与えるもの、指し示すものという見方もできますし、天使側からすれば、天・神のサポートを受けている存在、そのエネルギーや意思を背負っている存在だということを想像することができます。
それらの象徴として、光芒があるものと思われます。
ただ、その光に(人間が)気がついているか、気がついていないか(感じられるか・感じられないか)の違いは、例えば、「恋人」と「審判」では違いがあると言えます。
しかし、天使は光をもたらし、また、光を受けながら活動していることがわかります。ということは、天使を自分の中に受け入れることで、光が入ってくることにもなるのです。
ここでいう「天使を受け入れる」とは、象徴的な言い方です。実際に天使を見たり、存在と会話したりしなければならないというわけではないですし、天使を信じなさいと言っているわけでもありません。
信じる信じないの問題ではないのです。そのような態度は物理的に物事を見る現実認識に囚われている世界のもので、光と天使を受け入れるには、現実的な発想そのものを変えないといけません。(ただし、信じてはいけないという意味でもなく、信じることで存在が生み出されることもあるので、信じていくという方法もあります)
最後に、数のうえでは、「神の家」から「審判」に至るまで、光や光芒が連続していることも指摘しておきます。先ほどの「悪魔」も入れると、まさに15番からずっと続くようなものです。
このうち、天体として星・月・太陽は、占星学的な意味合いも考えることができ、光だけではなく光を放つその天体・惑星の象徴性も加味することができます。
しかしながら、マルセイユタロットの秘伝では、そして占星学上においても、これらタロットに描かれる天体が、、今の天文学による物理的な星々ではないことは言っておきます。
そして、「神の家」です。
これこそが、マルセイユタロット的には、光の神髄と言ってもいいものかもしれません。
この光の描写が、単一の色ではないことも重要です。
ほかのタロットなど、一般的には、むしろ災厄のようにとらえられるこの光とカードですが、マルセイユタロット的には名前のごとく、神の光、天からの光が強烈に降ってくることで、むしろ輝かしい祝福になると見ます。
神の光に包まれることは、どれだけの恩寵であるか想像してみてください。
しかし、それはあまりにも強力であり、それが受けきれる状態でないと、危険でもあるのです。
実際的なリーディングにレベルを下げて、この「神の家」の光を解釈するにしても、個人にとっての強烈な一撃であることでしょう。(予想外のこととは限りません。予想されたものというか、自分があえて厳しくも真実の自分の道を意識的に選択する場合ということもあります)
しかし、光として受け取る場合は、真の成長や幸せに導く、あるいは囚われた思考・感情、状況を打ち砕く、神からのまさしく「栄光」なのです。
グノーシス神話では、私たち人間は、天上(神の)世界の光(神性)、その破片を受け継いでいると言われます。
マルセイユタロットをグノーシス的に見る場合は、自分の光の破片をもとに、世界中に散らばった光をもう一度集める作業を描いていると言えます。
それは、それぞれ(関わる人々や経験)が違う色と光を持ち、それらを交換し合うことで、次第に完成された光へと変容・統合していく過程でもあります。
闇と対比すれは、闇へのコンクエスト(征服)であり、光のクエスト(探求)です。
しかしこの闇は悪いものというより、光を光として認識するための光の別要素とも言え、私たちを純粋な光の世界に回帰させるための役割をもっているのです。
すでにあなたは光の子であり、それゆえに、闇と格闘しながらも光に気づき、引き寄せられ、光に満ちようと生きているのです。
コメントを残す