自由・不自由 個人と全体の幸せ
心理・スピリチュアル系でも、自由を説く人は多いですね。
もっと自由になっていいんだ、自分のルールや心を解放しようという主張がよくあります。
それはもっともなことだと思います。
一方で、社会的には法律やルール、規則があり、これは順守しないといけないところがあります。
そうしないと、自分も皆も生活に困るからです。
自由の意味は様々に定義できますが、たいていのもの(言葉・状態)には反対の意味があるからそれが出るように、自由に対して不自由(束縛)があるからこそ、自由がわかるという仕組みがあります。
ということはまったくの自由というものは、もしかすると存在しないというか、私たちは捉えることができない(自由という意味さえわからなくなる)のかもしれません。
逆説的ですが、自由を知るには不自由を経験しないといけないわけです。
自由の主張で、「自分(一人)は自由に、好きなままに行動(生活)することができているので、自由は大切とか、自由になることは誰でもできる」と言う人がいますが、それは多くの不自由にいる人、不自由とは感じなくても、ルールや規則を守っている人がいるからこそ、それが可能になっている(全員が勝手気ままにすると成立しない世界)という、当たり前の社会構造が意識のうえで欠落している場合があり、それは子どもならまだしも、大人としては未熟なことだと言えます。
あと、この上記のような自由を叫ぶ人の論理では、わがまま、嫌なことから逃げることが自由と誤解していることも結構あります。
自らは既成の制度やルールを破壊することで悦に入るような、昔の中学生の不良のような幼い自我の人もいます。
ルールや規則を破つたり、変えたりしたいのなら、その代案や、皆がそれで暮らしやすい社会のプランを作ることが求められます。
俺流、ワタクシ流で「こんなやり方でも生活できる、自由に生きている、だから君もできる」という論理(理屈)は、先にも言ったように、まじめにルールを守っている人がいるからこそ成りたつもので、多くの普通の人の恩恵のうえでの自由と例外であり、都合のよいわがままに過ぎないことがあります。
しかしながら、やはり、従来の規則・ルール、仕組みを守るだけがよい生活を作るとは言えないところもあります。
私たちの生活はなるほど、確かにかなり便利にはなりましたし、日本は特に安全で清潔、サービスもすばらしいところがあります。
けれども、多くの人の労働や暮らしの実態は、非常に厳しいものがあり、日本は一般のサービス水準の要求が高いだけ、労働環境と条件もキツくなっているという、自己矛盾的なおかしな構造も抱えています。
昔はそれでも、そこそこそこの給料対価と、雇用の安定ということで、それらが我慢できる状況もあるにはありましたが、今はそれさえ崩壊していると言えます。
こんな中で、人間性や創造性が失われていくのも当然と言えます。世の中の人たちはますますギスギスし、イライラし、余裕というものが感じられなくなっています。
こうした中で、もっと自由に、楽に、生きたいように生きるという人たちが現れるのも、むしろ自然の流れかと思います。
ところで、「楽して儲けてはいけない」みたいな言い方もありますが、よく考えると、お金(キャッシュであれキャッシュレスであれ、お金としての価値のあるもの)さえに入ればいいという状況に、現代社会がなっていますから(つまり法律に違反しなければ、お金を稼いだり、手にしたりすることは、その過程が精神的に評価されることはあっても、物理的・数量的に多くしたものが実質的には価値がある・勝ちという実態なので)、賢い人は、労働で非効率に稼ぐより、お金を動かして楽に稼ぐという方法を選択するのも当然なわけです。
これは、モノと精神・霊が切り離されている今の時代だからこそ、そうなるのが当たり前なのかもしれません。
ですから、とても大きな視点で見れば、わがままだろうと、楽に走ろうとする人であろうと、なにがしかの現代社会へのアンチテーゼ、警鐘・警告の現れだと見ると、当人が自覚・無自覚かに関わらず、どの人も役割があるのだと見ることができます。
多くの不自由な人の中で、自由を選択していく人も、不自由な人に自由をもう一度考えさせ、社会変革の兆しとして、影響を与えていると考えることができます。
すべてはバランスではありますが、そのバランスのレベルを向上させていくことが今求められているように感じます。
どの時代も、どの状態においても、バランスは究極的には取れているのかもしれませんが、それぞれにおいて、レベルや次元が異なるのです。
例えば、今の時代のバランスが3段階目のバランスだとすれば、せめてあとふたつくらいあげて、5段階レベルバランスにしたいところです。
別の言い方をすると、自己犠牲を必死にして何とかバランスを取っている段階から、皆がもっと自然体に楽にしても社会全体と生活のバランスは取れているというレベルへの引き上げです。
そのためには、ただライトスピリチュアル的に精神論ばかり述べていてもだめでしょうし、特別な人だけが自由な生活というものを実践していても、それは先述したように、多くの不自由な暮らしを選択している人の犠牲で成りたつもの(結局勝ち組・負け組と同じような構造です)ですから、自由の象徴や刺激としての意味はあっても、皆のレベルを上げる具体論にはなりにくいです。
と言っても、政治家になって具体的な政策などを考えましょうと言っているのではありません。
まずは、今の社会や全体の暮らしにこれでいいのかという疑問を持つことが重要です。ただ従来の政治思想やカルト的なもの、果ては子どもじみた陰謀論からは距離をおいてです。
ちょっと前までは、個人の幸せや心の解放がよく言われていましたが、これからは、全体としての視点も持ち、皆のレベルが向上する暮らしや社会とは何かをイメージしていくことが大切だと思います。
そして、そのイメージの共有と実現性へのシフト(あきらめから可能性、実際性へと変化させていくこと)を目指すのです。
しかし、やはり個としての解放も同時進行で大事で、自分の心を縛り過ぎていては、全体としてのレベル向上のイメージを持つことが困難になります。(自己の解放より社会や全体の解放を先に志向し過ぎると、テロリストのような過激思想にとりつかれたり、すべては外の仕組みのせいだと人任せや、責任転嫁をしたり、虚無感にとらわれたりしがちになります)
また、心の解放の過程では、自分を鍛えるというのと、自分をいじめるというのでは別だという区別も大事です。そこに「自分を愛する」「自分を大切にする」という視点があるかどうかです。(ただ、楽にすることだけが解放ではありません)
精神とモノを切り離さず、モノの背景に心があること、心がモノを動かしていること、この意識も回復していくことも重要です。一言で言えば、失われたスピリチュアリティ(霊性)の回復です。
そうすると、物質だけ、精神だけに偏り過ぎず、統合のとれたバランス性を取り戻していくことができます。
一人ひとりにおいては、よいこだわりと悪いこだわりも分けていくとよいでしょう。
よいこだわりとは、好きなものとか、探求へのこだわりというもので、それをやっていて、周囲に迷惑はあまりかけずの、自分として幸せで楽しいものです。(周りの人も和やかになったり、勇気をもらえたり、知識や技術を与えてもらったりできるもの、または無害なもの)
悪いこだわりは、簡単に言えば、それによってますます自分が不幸になったり、視野が狭くなったり、周囲の人を悪くしていったりするものです。
簡単に言えば、選択の幅を増やすということが、解放につながってきます。
マルセイユタロットでも、現実の世界で霊的な意味を帯びてくるカードの象徴は「恋人」が顕著です。「恋人」の図像は、迷いのようにも見えるカードですが、迷いがあるということは、選択肢があるからこそとも言えます。
ですから、前向きに解釈すれば、選択が増えることが、現実(現状、今の状態・レベル)を超えるきっかけにもなると読めます。
迷いなく決定できることはすばらしいことですが、それは選ぶことがひとつしかないことでもあり、新しい変革はその場合、生まれにくいわけです。
ということで、迷いや悩みから、実はあなたや社会の変容か始まりつつあると見れば、問題もまた別の視点で見ることができますし、一人ひとりの問題・悩みを通して、選択の幅が増えることで、社会の選択肢も増加していくことになり、膠着した時代に変革がもたらされて、もしかすると、社会全体のレべルが上がるきっかけとなるかもしれないのです。
自分の幸せが全体の幸せとどうつながり、関係するのか、交互に思いながら、自己(それはイコール他人でもある)の本当の幸せを求めていく時代が来ているのだと思います。
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