吉野の蔵王権現とタロット

マルセイユタロットにはいろいろな使い方があります。

そのひとつに、たとえ信仰や宗教は違っても、マルセイユタロットの描かれている図像が、共通的に、ある種の神仏のエネルギー(本質と表現)とリンクし、カード自体をミニ像と見立てることができることです。

ところで、先日のGW中、最後の日でしたが、奈良の吉野に行ってきました。

吉野と言えば、が有名であり、吉野を訪れる観光客のほとんどが、桜の時期に占められるというほどです。

まあ、そんなわけで、桜のシーズンは吉野は激混みするわけですが、それでも上千本、奥千本と上に行けば行くほど、人も少なくなってきますので、場所を選べば、観桜期でも落ち着いて見られるところもあるかと思います。

と言っても、やはり桜目的でなければ、桜のシーズンは、はずしたほうがゆったり観光できます。今回の私の目的は、観桜期の四月とGWに特別に開帳される秘仏・金峰山寺の金剛蔵王権現拝観です。

当初は、ほかの神社・仏閣に参る予定でしたが、いろいろとあって、あるいは呼ばれたのか、ここになりました。五年前にも、観桜目的ではありましたが、吉野に来ていて、その時初めて拝観させてもらっていました。ただ、今回はこちらの参拝が主ということが違います。

というのも、この秘仏(写真撮影が禁止されていますので、HPをご覧ください)、巨大なうえに三体あり、しかも最大の特徴と言ってよいのが、ほぼ全身が「青色」に塗られているのです。その迫力は、実際に拝観すればわかりますが、すごいものがあります。

私が特に興味持ったのは、三体であることと、やはり青い色であるということでした。

青い色の神となれば、インドのヒンドゥー系の神によく見られ、シヴァ神や、クリシュナなどが有名かもしれません。

これらのヒンドゥー系の青い神は、実は本来は黒い色をしていると言われ、つまりは(をつかさどるもの)の象徴と考えられます。

また「3」ですが、インドで、神による3区分となると、そのシヴァ神を含んでのブラフマー、ヴィシュヌの創造・維持・破壊三神が浮かびます。このうち、シヴァ神は破壊(と再生)を担当すると言われます。

つまり、インドのヒンドゥー系を中心にして、青い神とは、宇宙の死と再生のシンボルでもあるわけです。

そして、マルセイユタロットにもこのような空色に近いブルーが使われており、私たちの間では、これが霊性を示す色だと伝えられています。

特に、大アルカナの中で、その空色(水色ぽいブルー)を見ていけば、私たちが、いかに霊性を取り戻していくかの過程がわかると言われます。

さきほど、インドの青い神は死と再生の神だと述べましたが、タロットがヨーロッパだけではなく、地中海湾岸、北アフリカ、中東、中央アジア、果ては中国などの思想や表現も入っていると考えると(その証拠はあります)、インドとの関連も十分に考えられます。

すると、私たちが霊性を獲得したり、その状態に回帰したりすることは、死が必要であることがわかります。ただ、その死は肉体の死の意味というより、象徴的な死、自我の死と言ってもいいかもしれません。

そして、死だけではなく、再生という意味も併せてあるように、私たちは不死鳥のように死んでも蘇る必要があるのです。

おそらく、黒は完全なる死を象徴するでしょうが、空色的なブルーで表現されるということは、そこに光や白が入っているから、その色になるのであり、それは象徴的にはあ叡智や再生の光ということになるでしょう。

空色(青い色)の仏像は、私たちの中にある死や恐怖、ネガティブなもの、自我の深い欲求なども表すと同時に、そこに取り込まれず、むしろ逆に力と変え、美なるもの、真なるもの、智慧なるものとして輝き、再生(本当の霊的な自分に生まれ変わること、悟れること)の可能性が自らに眠っていることを告げていると考えられます。

マルセイユタロットでは、「審判」に描かれている真ん中の人物、天使からラッパを鳴らされて目覚めたとも、覚醒したことで天使が祝福のファンファーレを鳴らしたとも取れるその人物が「空色」なのです。これぞ、本当の意味で蘇ったことを表し、仏教的には仏になった姿と言えるかもしれません。

ちなみに三つというのは、時間とも関係し、過去・現在・未来を意味します。

私たの世界は、時空認識をもとに、現実を主体としたところにいます。言い換えれば時間がある、時間が進んでいるという意識の世界です。

時間を認識するためには、今述べた三つ捉え方(過去・現在・未来)がないとできません。しかし本質的には時間はないと言われており、時空認識が超越したところに神や仏の世界があります。

ということは、三体の仏像は、現世とあの世(此岸と彼岸)、現実の苦しみや楽しみが時間によって生み出される世界(つまり現実)と、そこから超越している永遠の世界を、暗に示しているとも言えます。

こうした見方で、改めて吉野の秘仏を拝観しますと、両端の仏像が真ん中に統合されるようにも見えますし、左右の性質を分離させることで、身近に私たちの権現としての仏・神を感じることができるような仕組みになっているのに気づきます。

つまりは、私たちは実はひとつで、自分の中にある神や仏を、目の前の三つの仏像に分離されたものとして見ることで、現実の自分(自我)としての親和性が生み出され、三つのうちのどれかに親しみや会話をしたくなる傾向が出るのです。

それは時間として、過去の自分、今の自分、未来の自分とも言えます。あるいは両端のふたつとしては、女性性・男性性とか、能動・受容、ペルソナと本質などの二元性の自分も見ることがあるでしょう。

そして最終的には、どれか(特に真ん中)の存在によって、一度、象徴的な死を与えられ、最終的には三つが統合されて、(内なる)仏や神と邂逅することになるのです。

それは「宇宙」と言ってよく、だからこそ、東大寺の大仏(廬舎那仏)のように巨大でもあると言えるのです。

こうした仕組みは、光がろうそくのみで照らされる夜間拝観の時のほうが、よく感じられるかもしれません。

あと、個人的に思うのは、この吉野の蔵王権現、死と再生の色であることから、真剣に参ると、カルマの浮上と浄化、まさに自分の中での何かの破壊と再生が起きる気がします。くすぶっていたものがついに開かれ、強引にでも浄化や再生の道に進まざるを得なくなる感じと言えましょうか。そういう意味では不動明王的でもあります。

マルセイユタロットを通した、神仏像の考察の記事でした。

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